Javaさんのお部屋(サム・ジーヴァ帝国図書館)

Javaさんのお部屋です。引っ越しました。詳しくは「はじめに」を読んでね。スマホ版は全体像が見えにくいから、PC版と切り替えながら見てね。

読むと書く

著者:井筒俊彦
評価:B+

【評】
著作集未収録エッセイ70篇を収録。
井筒俊彦入門に最適の一冊。
…とオビに書いてあるが、『イスラーム文化』や『<コーラン>を読む』あたりから入ったほうがいいだろう。

いわく言いがたい混沌の心象イマージュを概念化、言語化、構造化する能力に驚嘆しつつ、
一時期詩人希望であったという彼の、流麗な文章を楽しむことにしよう。

「解題」にて、
井筒俊彦は、西田幾多郎以降に登場した最も独創的な哲学者だといっていい。しかし、西田幾多郎と京都学派と井筒俊彦の関係を巡る研究は緒についたばかりなのである」
若松英輔が言っているが、まさにその通り。
井筒俊彦の著書がより多くの人に読まれることを願って已まない。

【回教学の黎明】
<ザマフシャリー>
宗教が強力になる時、必然的に起こる問題の一つは人間の意志の自由と、神の予定との衝突である。このことは上にも少し触れたが、特に、神が常に絶対的な人間の君主として表象されるセム民族にあって実に避け得ざる信仰上の危機である。そして、この点に於て、イスラムを興したアラビア人は完全にセムの子であった。

<アラビア文化の性格>
アラビアの文化は著しく視覚的な文化である。アラビア人の鋭い眼光は、彼らの創り出した文化のあらゆる層に浸徹して、極めて視覚的な特性を形づくっている。彼らの文化を、研究し、その歴史を辿り、その源泉を探らんとする人は、この事を一時も忘れてはならないのである。

マホメット
「彼は物のまわりをぐるっと廻って見る。そして其処に五色燦然たる真珠の玉を幾つも幾つも見付け出す。けれども此の美しい真珠の玉には、それをつなぐ糸が通っていないのだ」

彼は言う、真の徴は一見平凡と見えて人々の普通気づかぬほどの事にあるのだ。徴は天地至るところに在るではないか。流れる水、空ゆく風、海上を走る舟、飛び行く鳥、乾き切った大地を一瞬にして蘇生させる春の豪雨、山は高く砂漠は広漠と拡がり動物は生きている、これ等は考えて見れば実に絶妙なる不思議ではないのか。ムハンマドはありとあらゆる砂漠の事物生物とり来ってその一つ一つが驚くべき奇蹟なることを縷々として述べる。だから、コーランは初めから終わりまで視覚的なイマージュに充満している。

<イブン・アラビーの存在論
一はすなわち物体自身であり、多はこれが諸々の鏡に映れる姿であって彼の真実在の影にすぎない。映像にのみ執する俗人の眼には世界は多としか見えないが、超絶的眼識を有する達人は、この現象的差別の他の底に無限無窮にして万物を囲繞するところの絶対的な一を見得するのである。

神、この玄妙なる絶対的実在は一切の裡に千里浩蕩として浄厳なる姿を露わして居るのであって、あれとかこれとかの特定なものの中にのみ宿るものではない。
<回教に於ける啓示と理性>
神秘主義者たちはこの神の超越性と遍在性、内在性という一見矛盾して相容れざる二つのものが神秘的体験、神と人の愛の結合に於いてのみ、何等の矛盾なく結合すると主張する。神と人との間には超え難き空隙があるが、日夜を分かたず努め励み、心を清澄な状態に置いてじっと神の働きかけるのを待っていると、軈て機が熟するや、突如として眼も眩むばかりの光明が心の壁を破って流れ込み、彼の自己意識は跡かたもなく消え去って、無限に遠き神が一瞬にして無限に近いものとなって、見るものと見られるものは一となり、在るものはただ神のみになるというのであります。

イスラム思想史>
此の「最後の日」は嚠喨と天地に響き渡る喇叭の音に始まる。そして耳を聾する霹靂が天を揺るがし、何ものとも知れぬ崩壊と衝撃の凄まじい音響が起る。大地は恐ろしい地震に裂けひろがって、地底深く埋蔵されていたものが悉く吐き出される。天蓋はぐらぐらとよろめき、不気味な亀裂が縦横に走って遂には下から巻き上がってしまう。山々は動き互いに轟然たる大音響と共に粉々に飛び散り、太陽は折れ曲がり、月は裂け、星々は光もなく地上に雨と降って来る。天は火焔を吹き噴煙濛々として万物を焦がす。墳墓は口を開いて、死者はことごとく甦り審きの場に曳かれて行くのである。この時、巻き上げられ破れ去った天蓋の彼方に八人の天使に保たれた天の御座が現われる。

なぜならば死と審判の間は完全な無意識であって、無に等しく、従って審判は死と共に来るものであるから。審判が近いというのはこの意味に於て近いのである。人は死の床に目をつぶる時、その瞬間早くも神の審きの迫り来るを聞くのである。

イスラームの二つの顔>
ビザンチンキリスト教、地中海的グノーシスゾロアスター教的光と闇の幻想性、ヒンドゥー仏教的湿潤性。これら、古代諸文明の遺産が入り乱れ錯綜しつつ作用する特殊な文化コンテクストの中で、イスラーム文化は一つの独自な、国際的文化として発達した。

他にも、時を崇めていた部族、シーア派の暗い一面などよもやまのエッセイその他が面白い。

【言葉と「コトバ」】
<記号活動としての言語>
人間はこのように言語によって初めて外材物を人間の心内にまで取り入れることが出来、謂わば外界を内在化する強力な手段を言語によって与えられているのだと云えるのである。

言語哲学としての真言
それらの意味と意味可能体の発散する気のようなものが、われわれの意識の認識機構に作用して、われわれの感覚的原体験のカオスを様々に区切り、それらの区切りの一つ一つが、あるいは明確な、あるいは漠然としたものいう存在形象を産み出していく。そして、それらの様々に明確度を異にする存在形象が、意識の向こう側に、いわゆる客観的な存在世界の地平を描き出していく。だからこそまた、このようにして現出した、いわゆる客観的世界は、全てが明確な境界線で区切られた事物事象だけからなるものではなくて、むしろ全体的には、常に茫漠として、漠然として捉えがたい曖昧性、不分明性の深い靄に包まれた形で、われわれの前に現われてくるのであります。

<東洋思想>
古来、東洋には多くの思想潮流、思想伝統が現われて、それぞれ重大な文化史的役割を果たしてきた。それら相互間に生起した対立、闘争、影響、鍵概念の借用・流用、移植と摂取の歴史。時代と場所を異にする多くの思想伝統が、直接間接、多重多層の相互連関において織り出してきた壮大華麗な発展史的全体テクストを、われわれはそこにみる。東洋思想のこの歴史的連関性の展開史を、構造的構成要素の同位体的相互連関性に組み直すことができるなら、東洋思想は、そこに、一つの共時的構造テクストとして定立されるであろう。

<意味論序説>
「アラヤ識」の中に貯えられた「語言種子」、すなわち自己の言語化を志向しつつ一瞬も休まず蠢動する意味可能体の一々は、当然、まだほとんど自己を分別して独立した単体となるに十分な力能を持たない。それらは互いにぶつかり合い、混交し、融合し、交錯し合いながら自己分節の可能性を模索するのみである。だがそれらは、表層言語の領域に入るにつれて、次第にある程度の固定性を獲得し、整理されて、そこに幾つかの、前述した意味構成要素の集合を、意味フィールド的に形成するに至るのである。このようにある程度まで秩序立てられているとはいえ、表層的意味フィールドにも明らかに分節点の絶えざる揺動が認められる。意味フィールドのこの領域的定めなさ、浮動性のうちに「アラヤ識」の構造を支配する、あの原初の意味分節的カオスの深みを、我々は垣間見るのである。

【「詩」と哲学】
<「読む」と「書く」>
これからものを書こうと身構えて、内的昂揚と緊張状態に入った書き手の意識の深層領域の薄暗がりのなかから、コトバが湧き上がってきて一種独特な「現実」を生んでいく、その言語創造的プロセスが、すなわち、「書く」とことなのである、ということもできよう。

<「気づく」>
むしろそれは、「意味」生成の根源的な場所である下意識領域(唯識のいわゆる「アラヤ識」)に、新しい「意味」結合的事態が生起することである。「気づき」の意外性によって、アラヤ識にひそむ無数の「意味種子」の流動的絡み合いに微妙な変化が起るのだ。「意味」昨日磁場としての意識深層におけるこの変化が、次の「気づき」の機会に、新しい「意味」の連鎖連関を、存在体験の現象的現場に喚起し結晶させてゆく。「気づき」は、日本的意味構造にとって、その都度その都度の新しい「意味」連関の創出であり、新しい存在事態の創造であったのである。

【その他】
西脇先生を生涯ただ一人の我が師と思っている、一体これはどういうことなのだろう。だが、考えてみれば、なんの気兼ねもなく、こんなに自由に先生から遠ざかることができたということ自体、先生の学風なのではなかったか。ひろびろと開けた学問の地平、それこそ私が西脇先生から学びえた最も貴重な教えではなかったか。
 
部屋とワイシャツと西脇先生と言語学と私>
コトバというものの底知れぬ深さに私は触れた。コトバに対する強烈な立体的関心が、そんな経験を通じて、私の内部でひそかに育まれていった。だが、言語学者になろうなどとは夢にも考えていなかった。

<東西文化の交流>
交通網が発達し、世界がせまくなって来ると、一般に地球上の地理的空間は、実際の現実の距離感を超越して、何か心の中のイメージの空間、意識の中の空間とその性質が似て来るようだ。私がこの春以来の数カ月の間に見た場所――銀座や、スイスの山河や、スペインの街々、ニューヨーク、テヘラン、パリ等々が相互間に横たわる現実の距離を超越して、あたかも、一望に見渡せる世界地図のパノラマ上の各地点に位置しているような感じで、いつも私の心の中にある。

<武者修行>
生きた国際感覚を身につけて、自分の学問の先端で今どんなことが起こりつつあり、またどんなことが起ころうとしているのかを察知する鋭敏で柔軟な感覚を養うためには、本だけ読んでいてはどうにもならないところがあるのだ。どうしても自分自身で学問の国際的現場に出かけて行って、そこでの生きた人間との実存的接触を通じて何かを体認することが必要になって来る。

<「エラノス叢書」の発刊に際して>
どこからともなく夕闇の翳りがしのび寄ってくる。事物は相互の明確な差別を失い、浮動的・流動的となって、各自本来の固定性を喪失し、互いに滲透し合い混淆し合って次第に原初の渾沌に戻ろうとする。有分節的世界が己れの無分節的次元に回帰しようとする両者の中間に拡がる薄暮の空間、存在の深層領域が、人々の好奇心をさそう。地上の一切が真の闇の中に没して完全に無化されてしまう直前のひと時の暗さには、何か言いしれぬ魅惑がある。永遠にグノーシス的なるもの……秘教的なるもの……神秘主義的なるもの……存在の仄暗さへの志向性。