【概要】
著者(監督):井筒俊彦
言語哲学関連の講演録や論文集。「言語アラヤ識」などに代表される東洋哲学の共時的構造化がメイン。スーフィズムや空海の意味分節論など、すでに彼の著作に親しんでいたらそんなに目新しさはないかも。
やはり『意識と本質』が主著の座を譲ることはない模様だ。
【詳細】
<目次>
- Ⅰ
- 一 人間存在の現代的状況と東洋哲学
二 文化と言語アラヤ識――異文化間対話の可能性をめぐって - Ⅱ
三 デリダのなかの「ユダヤ人」
四 「書く」――デリダのエクリチュール論に因んで - Ⅲ
五 シーア派イスラーム――シーア的殉教者意識の由来とその演劇性
六 スーフィズムと言語哲学
七 意味分節理論と空海――真言密教の言語哲学的可能性を探る
八 渾沌――無と有のあいだ - あとがき〈解体構築〉DÉCONSTRUCTIONとは何か(ジャック・デリダ/丸山圭三郎 訳)
- 解 説(斎藤慶典)
<メモ>
1
観想体験の極限的境位において、いわば一度「無」を見た人、「無」を見てきた人だけが、事物をそういう相の下に眺めることができるのです。存在の「渾沌」的状態を、たんに「渾沌」の境位だけに限定された事態として見るのではない。いったん「無」的体験を経た人の意識は、日常的経験の世界に戻ってきても、そこに展開している現象的事物の有様を、観想を知らない人々とはまったく違った目で見ている。つまり、日常的経験の次元においてすら、存在を「渾沌」的に見ているのです。「無」に触れることによって、意識そのものが根本的に変質してしまっているのですから当然です。
往相⇔還相やないか(; ・`д・´)
1
全体的に見れば、この世界に存在すると考えられる事物は、すべて「無」すなわち絶対無分節者が、様々な形で自己分節していく「出来事」の多重多層的拡がりにすぎません。しかも、ひとつひとつの「出来事」は文字通り瞬間的な出来事です。無分節が自己分節した姿を一瞬見せる、そしてまたそのままもとの無分節に戻る。無分節のこの存在展開と逆行が不断に繰り返されてゆく。まさに『易経』の「易」の意味する事態。存在世界は、かくて、一つの無限の動的プロセス、宇宙的流動なのであり、この世界のすべての物は、根抵から、こういう意味での存在論的流動性によって特徴づけられるのです。そしてこれこそ、「有」から出発して「無」に至り、「無」からまた「有」に戻る、つまり表層、深層をともに合わせて、意識のあらゆる層を観想的に知った人の目に映るリアリティの存在論的風景なのであります。
井筒っぽい表現や文体やのう~(爆)
2
要するに、地球上に存在する諸言語の一つ一つが、それぞれ独自の「現実」分節の機構を内蔵していて、それが原初的不分節(未分節)の存在を様々の単位に分節し、それらを人間的経験のいろいろな次元において整合し、そこに、一つの多層的意味構造を作り出すのである。
2
創造と創造以前、現象と未現象、展開と未展開、分節と未分節、有と無、その他、東洋哲学において理論化される形は具体的には様々だが、いずれも同じ問題を、同じ型の思考で考えようとする。ここに、古典的東洋哲学一般に共通する最も基本的なテーマを、私は見る。この問題を、東洋哲学の多くの伝統が、一種の言語批判という形で展開してきたことを、私は非常に興味深い事実として受けとめる。
「共時的構造化」ですかな?
2
だが、実は、言語は、従って文化は、こうした社会制度的固定性によって特徴づけられる表層次元の下に、隠れた深層構造をもっている。そこでは、言語的意味は、流動的浮動的な未定形性を示す。本源的な意味遊動の世界。何ものも、ここでは本質的に固定されてはいない。すべてが流れ、揺れている。固定された意味というものが、まだ出来上っていないからだ。勿論、かつ消えかつ現われるこれらの意味のあいだにも区別はある。だが、その区別は、表層次元に見られるような固定性をもっていない。「意味」というよりは、むしろ「意味可能体」である。縺れ合い、絡み合う無数の「意味可能体」が表層的「意味」の明るみに出ようとして、言語意識の薄暮のなかに相鬩ぎ、相戯れる。「無名」が、いままさに「有名」に転じようとする微妙な中間地帯。無と有のあいだ、無分節と有分節との狭間に、何かさだかならぬものの面影が仄かに揺らぐ。「意味」生成のこの幽邃な深層風景を、『老子』の象徴的な言葉が描き出す。日く、
道の物たる、惟れ、惟れ惚
惚たり恍たり、その中に象有り
恍たり惚たり、その中に物有り
窈たり冥たり、其の中に精あり
出たー(笑) 詩的なのか学術的なのかよく分からん井筒的表現(; ・`д・´)
あとがき
心ならずも……だが、考えてみれば、それが私の生涯の、運命が用意してくれた転機だったのかもしれない。イランでの仕事に興味は尽きなかった。しかし奇妙なことに、それを棄て去ることを悔む気持は少しも起こらなかった。それどころか、日航の救出機に腰を下ろした時、私はすでに次の新しい仕事を考えていたのだった。今度こそ、二十年ぶりで日本に落ちついて、これからは東洋哲学をめぐる自分の思想を、日本語で展開し、日本語で表現してみよう、という決心とも希望ともつかぬ憶いで、それはあった。
テヘランからアテネに向かう私達の飛行機は、その途中の空中で、アテネからテヘランに向かうホメイニーの一行を乗せたフランス機とすれ違った。そんな噂だった。
1979、井筒日本に帰る。
やはり『意識と本質』が主著の座を譲ることはない模様だ。