評価:B+
【評】
第一次、第二次ポエニ戦役が主。
第二次ポエニ戦役では、古代ローマ最強の難敵、ハンニバルが登場。
蹂躙されるイタリア半島。ローマは滅びてしまうのか。
歴史はちゃっかり好敵手を用意していた。その名はスキピオ。
節制、規律を重んじた古代ローマの人々。
かれらの生活が、紙面から色鮮やかに再現される。
小麦を刈る人、広場で弁論する人、戦場に向かう夫を見送る妻子。
戦場に目をを移せば、
号令が響き、戦士の雄叫びや、武具の激しくぶつかる音が聞こえる。
たち込める砂塵が見える。象が狂奔し、馬が疾駆するのが見える。
どんなに妨害されてもやり遂げる人を見たとき、
→「何であろうと、ハンニバルは通過する」
子供を叱るとき、
→「戸口に、ハンニバルが来ていますよ」
知力では優れていたギリシア人なのに、経済力に軍事力にハンニバルという稀代の名将までもっていたカルタゴ人なのに、なぜローマに敗れたのか。それを、プロセスを一つ一つ追っていくことで考えていただければ、著者である私にとってはこれ以上の喜びはない。
ローマ人の面白いところは、何でも自分たちでやろうとしなかったところであり、どの分野でも自分たちがナンバー・ワンでなければならないとは考えないところであった。もはや完全にローマ化していたエトルリア人は、あいもかわらず土木事業で腕をふるっていたし、南伊のギリシア人は通商をまかされていた。シチリアが傘下に加わって本格的にギリシア文化が導入されるようになって以降は、芸術も哲学も数学もギリシア人にまかせます、という感じになってくる。
ローマ人は今でいう「インフラ整備」の重要さに注目した、最初の民族ではなかったかと思う。インフラストラクチャーの整備が生産性の向上につながることは、現代人ならば知っている。そして、生産性の向上が、生活水準の向上につながっていくことも。
ローマ人には、マニュアル化する理由があったのだ。指揮官から兵から、毎年変るのである。誰がやっても同じ結果を生むためには、細部まで細かく決めておく必要があった。
紀元前215年からのローマは、東西南北のいずれにも敵をもつ身になっていた。
東は、マケドニア。南は、シラクサ。西は、スペイン。北は、ガリア民族。そして、イタリアの中には、最も手強いハンニバルがいた。
第二次ポエニ戦争の舞台に、もう一人の天才的な武将が登場する。私には、アレクサンダー大王の最も優秀な弟子がハンニバルであるとすれば、そのハンニバルの最も優れた弟子は、このスキピオではないかと思われる。そして、 アレクサンダーは弟子の才能を試験する機会をもたずに世を去ったが、それが彼の幸運でもあった。ハンニバルの場合は、そうはならなかったのであった。
敗者の絶滅は、ローマ人のやり方ではない。武装した敵に対しては武装した心で対するしかないが、武装を解いた敗者に対しては。こちらも武装を解いた心で対するのが、これまでは常にわれわれのやり方であった。