Javaさんのお部屋(サム・ジーヴァ帝国図書館)

Javaさんのお部屋です。引っ越しました。詳しくは「はじめに」を読んでね。スマホ版は全体像が見えにくいから、PC版と切り替えながら見てね。

古代ポンペイの日常生活

古代ポンペイの日常生活 (講談社学術文庫)

【概要】
著者(監督):本村凌二

ヴェスヴィオ火山の噴出物の下に沈んだポンペイの街。幸か不幸か、我々はその「街角に残された落書きを通じて、民衆の喜びや憎しみがじかに聞」きとることができる。それらの壁には広告や選挙ポスター、罵りの言葉やメモが書き込まれ、いつも民衆の目に触れる掲示板だったということだ。特に第六章「愛欲の街角」はなかなかにあけすけな内容で興奮するぞ(; ・`д・´)

ポンペイ滅亡前夜や発掘(盗掘)、道路や上下水道などにみられるローマ人の土木建築能力話もなかなか興味深い。

 

【詳細】
<目次>

  • 第1章 大噴火と発掘の歴史
  • 第2章 友に、公職を!
  • 第3章 公務にふさわしい人びと
  • 第4章 民衆は見世物を熱望する
  • 第5章 喜怒哀楽の生活風景
  • 第6章 愛欲の街角
  • 第7章 文字を学ぶ
  • 第8章 落書きのなかの読み書き能力


<メモ>

広告や落書きには、公私を問わずその時代に生きていた人びとの肉声が語られており、往時の生き生きとした民衆の姿が浮かび上がってくる点で比類がない。そこまで古代社会の生活風景を再現できるのはポンペイをおいてほかにない。本書は、落書きを中心とする文字史料を素材として、豊穣にして優雅であり、さらにはあけすけで猥雑でもある血の通った古代社会を描こうとする試みである。

 

そもそも落書きは民衆の遊びである。それにしても、そこには書き手の思いが込められている。気晴らし、期待、不安、怒り、恐れ、軽蔑、そして、親愛。人間の喜怒哀楽のすべてをないまぜにしながら、落書きはさりげなく語りかける。

 

〇ありがちなもの

剣闘士の試合に関するオシャレレタリング、剣闘士の試合スケッチ・対戦成績(ヘタウマな絵付き)、美男のスタア剣闘士への熱視線、言葉遊び(名前を逆さにするとか)、早口言葉、綴りミス、アルファベットの手習い、回文、名前の下に豚、男の大事なイチジク(*)へのいじり、建築師のオシャレ文字自己紹介などなど。

 

  • ヒルティア=プサカスは、夫にして導き手であり慈しみ深い相談役でもあるガイウス=ホスティリウス=コノプスと、妹ディオドタ、弟フォルトゥナトゥス、そしてケレルに対して、いつどこにあっても心から親愛の念を抱いています。そして幼い長女にも愛をこめて」

〇罵詈雑言シリーズ

  • 「アエフェブスよ、お前はうるさい奴だ。」
  • 「ガイウス=ハディウス=ウェントリオ、ローマ騎士にして馬鹿と阿呆の間に生まれたる者。」
  • 「ペラリウスよ、お前は泥棒だ。」
  • 「オッピウスよ、狂言者にして、盗人、こそ泥。」

〇愛欲の街角シリーズ

  • 「サビナよ、いつまでも花の盛りでいてくれますように。いつまでも美しく少女のままでいてくれますように」
  • 「愛するものは誰でも死んでしまえ。」
  • 「ダフニクスは彼のフェリクラとともにここにいます。[別人の筆跡で]フェリクラに幸あれ、ダフニクスに幸あれ、二人共々、無事にいますように。」
  • 「マルケッルスはプラエネスティナを愛しているが、見向きもされない。」
  • 「お前の浮ついた顔つきと媚びた目つきを他人の女房からそらせ! そして、少しは、恥をわきまえた表情をしてみろ!」

〇どっきりシリーズ

  • 「来た、やった、帰った。」
  • 「男根が命じるのだ、愛せよと。」
  • 「ヴェネリアはマッシムスの男根を吸う。収穫祭の間ずっと。彼女の二つの穴は空っぽのまま、お口はいつもあふれている。」
  • 「射精する。」

☝(; ・`д・´)

 

 

卑しむべき奴隷が聖なる死に臨むのである。汚らわしき男の背後から崇高なる輝きがもれてくる。汚辱された神聖さ、犯しがたい卑俗さが漂っている。それはこの世の対極にあるにもかかわらず、剣闘士の現し身のなかではひとつに溶け合っているのである。その姿を目にするとき、女性たちは恐れおののくとともに、そっと指で触れたくなるのだ。その魅力は抗しがたいところがあり、たじろぎながら手を差し伸べるのだった。この世の対極にある相反する力が、女性たちの心を引き裂くのである。しかし、そこにはえも言われぬ衝動が湧いてくるのである。たとえようもない至上の快楽が待ち受けている。それこそエロティシズムそのものであった。

 

このような事例を通じて驚くべきことは、そこに生きる人びとの屈託のなさである。さらに、なによりも印象深いのは、これを書いたのは親方あるいは監督者のクレスケンスだけではないということ。そこで働く職人たちも同様に書いていたという事実である。これらの下層の職人たちは、ちょっとしたきっかけでもあれば、何ほどかを書くことができる。そういう事情はもはや疑うべくもないのではないだろうか。