【概要】
著者(監督):小野田寛郎
最近映画化された。最後の日本兵こと小野田寛郎の自伝。30年にわたるルバング島生活の苦闘、帰国後の第二の生を語る。
信念もとい狂気がないと精神が錯乱しそう。意外とユーモアのセンスがあったりする。
【詳細】
<目次>
- ブラジルの日々
- 30年目の投降命令
- フィリピン戦線へ
- ルバング島での戦闘
- 密林の「残置諜者」
- 「救出」は米軍の謀略工作だ
- 終戦28年目、小塚一等兵の“戦死”
- たった一人の任務遂行
- 帰還、狂騒と虚脱と
- 生きる
<メモ>
- メモは取っていなかったようだが、超人的な記憶力で約30年の記憶を思い起こす。
- 「牛を撃って(売って)」などのダジャレ、競馬の話、現地人につけたニックネーム、タクシー運転手とのやりとり、妻とのダンスの一件など、小野田さん真面目な人かと思っていたら、意外と冗談も言う面白い人なのかも。
- 精神を保つのが大変そう。でも、数十人殺傷するも、女子供には手出しせず(本人談)。
- 島田伍長や小塚一等兵など、部下の思い出話と死なせてしまった慙愧の念がちょくちょく出る。関係のフラットさをある程度保てた秘訣が興味深い。
情報収集や分析能力、生き延びる知恵は中の学校で学んだものか。中野学校の異端的教育方針(玉砕禁止、佐渡おけさ グループディスカッション方式の演習
)はなかなか先進的で面白い。ただ、疑心暗鬼で超理論をひねり出すあたりには極限状況での認知のゆがみを感じてしまった(後知恵であるが)。 - 意外と肉食で過ごしていた模様。雨季は敵襲が少なく落ち着くらしい。身体は無論のこと、服や装備品頑丈すぎ。小屋の作り方、肉の処理、電池の保存、用便、裁縫など、生き延びる知恵と技能がすごすぎる。何でもできそう。
- 戦後日本にはガッカリ。曰く、「死を意識しないことで、日本人は『生きる』ことをおろそかにしてしまってはいないだろうか」。それもあって、ブラジル行ったり自然塾を開催したりする。
「満開の桜が明るかった。その華やかさが私を困惑させた」
鈴木紀夫との談笑写真が最の高なんだわ。
この季節になると、私はもう会うこともできなくなった一人の青年を思い出す。鈴木紀夫君(昭和六十一年十二月、ヒマラヤで遭難死)。私の運命を百八十度転換させた男である。
ただ一つ、男には私に銃の引き金を引かせることをためらわせた点があった。サンダル履きのくせに、毛の靴下を履いていた。軍人ではない。もし住民だとしても、靴下を履く階層は靴を履く。
昭和四十九年二月二十日、ルバング島山中。これが私に祖国日本への生還の道をひらいてくれた鈴木紀夫君との遭遇だった。このとき、彼は二十四歳、私五十一歳。
のちに知ることだが、日本の敗戦から三十年近くがたとうとしていた。
配属前訓示。
「玉砕は一切まかりならぬ。三年でも、五年でもがんばれ。必ず迎えに行く。それまで兵隊が一人でも残っている間は、ヤシの実をかじってでもその兵隊を使ってがんばってくれ。いいか、重ねていうが、玉砕は絶対に許さん。わかったな」
二人は私を「隊長」と呼んていたが、三人の間には軍隊的階級意識はなかった。対等の立場で意見をいい、作戦や食糧探しの行動計画を練った。
神経が休まると、思い出話に花が咲き、故郷や肉親の話も出る。タネが尽きれば、また最初から同じ話の繰り返しである。
小野田さんに聞いてみた。
「ルバング島へ行ってみたいと思いませんか?」
彼は暗く、沈んだ声でいった。
「木一本、砂一粒を見るのも嫌です。何ひとつ、楽しいことはなかったですから……」
―—人生の最も貴重な時期である三十年間をジャングルの中で暮らしたことについて。
「(質問者を凝視してしばらく考えたあと)若い、勢い盛んなときに大事な仕事を全身でやったことを幸福に思います」
―—三十年間、心で思い続けてきたことは。
「任務の完遂すること以外にはありません」