【概要】
著者(監督):笠原一男
親鸞大好きマンが彼の生涯と思想を割とコンパクトにまとめている。京⇒新潟⇒茨城⇒京と拠点を変えていった背景や思想の変化について理解が深まった。浄土真宗の考え方はもちろんのこと、歎異抄の簡易解説もあり、お得感のある内容となっている。バス事故のたとえ(重傷者優先:悪人正機)はわかりやすい。
【詳細】
<目次>
- 序論
- 第1章 鎌倉仏教はなぜ生まれたか
- 第2章 他力の念仏後親鸞
- 第3章 越後における流人親鸞
- 第4章 関東の親鸞
- 第5章 親鸞教団の形成と弾圧
- 第6章 慈信坊善鸞の背信と義絶
- 第7章 親鸞の往生とその後の真宗
- 第8章 親鸞における行動と思想
<メモ>
また親鸞の本を書いてしまった。書くたびに、これが最後、これが最後、と思い続けてきたにもかかわらず、またまた書いてしまった。私にとって親鸞というテーマは、たんに私の歴史研究の主要テーマというにとどまらず、半世紀を超える私の歴史研究の三本柱のひとつともいうべきものであり、私が歴史の研究をやめることがないかぎり、縁がつきることはなさそうである。
私の歴史研究の三本柱とは「蓮如」・「一向一揆」・「親鸞」の三つである。
次にしめす親鸞および真宗史をめぐるいくつかの疑問の解明に挑んでみた。
一 親鸞が発見した新しい念仏の救い。
二 民衆の心をとらえた親鸞の人間像。
三 煩悩具足の仏、親鸞の魅力。
四 民衆と喜怒哀楽をともにする生きた親鸞。
五 民衆の怒りを代弁して怒る親鸞。
六 公私・同行・父子で区別しない怒り。
七 親鸞没後、本願寺はなぜさびれたか。
このような鎌倉仏教の特色を整理してみると、「選択・専修・ 易行」ということになる。
すなわち、無数の仏の救いのなかからただひとつの救いを選び、それだけをもっぱら修行し、しかもその修行は易しい、これが鎌倉仏教の特色である。そして、日本の無数ともいえる神仏の救いのなかから、「念仏」ただひとつを選んだ開祖が法然・親鸞・一遍の三人であり、「禅」を選んだ開祖が栄西と道元であった。そして、「題目」を選んだ開祖が日蓮であった。
日々の生活のなかで喜怒哀楽を人並みに、いや人並み以上に鋭く感じ、偽らざる反応を精いっぱい表現できるような少年であり、青年であり、人間であった。さらにいえば、親鸞がもって生まれた喜怒哀楽への強い感受性は、人生の荒波にもまれて、年とともに鈍っていくといったひ弱なものではなかった。親鸞は俗にいう「十で神童、十五で才子、二十過ぎれば、ただの人」といったものではなかった。また、親鸞は生涯を通じて、自己の発言にたいして、きわめて強くきびしい責任感をもち続けた人であった。
親鸞はこの世の喜怒哀楽を念仏者とともに、いや念仏者にかわって全身で感じ取り、公・私を問うことなく反応をしめす煩悩具足のこの世の仏であった。親鸞は相手が「公」であろうと、「私」であろうと、「聖」であろうと、「学」であろうと、正義を否定し、無視する輩にたいしては憤りを投げつけるのである。それは、親鸞とともに生きることをきめた多くの念仏者にたいする当然の行動であった。
親鸞は、人間における煩悩の象徴ともいえる「喜怒哀楽」にたいして、はじらうことなく、臆することなく、恐れることなく、ありのままの自分を堂々と表現できる人であった。昨日まで本願ぼこりも救われるといっていた親鸞は、今日は獅子身中の虫、地獄にもおちよ、天魔ともなれ、といいきれる人でもあった。そのような親鸞を支えていたものこそ、「煩悩具足の仏親鸞」への自覚であった。
まさに親鸞の救いは、この世において確約があたえられ、死と同時に浄土に行けるのである。親鸞の説く念仏の救いは、現世において完結するのである。したがって親鸞の念仏の救いのすべては、現世において得られる利益であるといっても過言ではない。
・「唯一筋」
・「自信教人信 難中転更難
大悲伝普化 真成報仏恩」
・「他力に心をかけて信心深くば、それこそ願の本意にて候はめ」
・「南無阿弥陀仏を唱ふれば
十方無量の諸仏は
百重千重囲繞して
喜びまもりたまふなり」