Javaさんのお部屋(サム・ジーヴァ帝国図書館)

Javaさんのお部屋です。引っ越しました。詳しくは「はじめに」を読んでね。スマホ版は全体像が見えにくいから、PC版と切り替えながら見てね。

銀翼のアルチザン 中島飛行機技師長・小山悌物語

銀翼のアルチザン 中島飛行機技師長・小山悌物語

【概要】
著者(監督):長島芳明

中島飛行機のエース技術者の評伝もとい小説。コネ入社、外国人技術者による指導や技術雑誌の回覧など、大正~昭和初期の活気が感じられていい感じ。技術ベンチャー中島飛行機SUBARUの前身だったとは知らなかったなあ。

 

【詳細】
<目次>

  • プロローグ 空を切り裂く悪魔の機体
  • 第一章 東北からやって来た男 
  • 第二章 空飛ぶジャンヌ・ダルク、松本キク 
  • 第三章 変人、糸川英夫の入社 
  • 第四章 中島知久平の野望
  • 第五章 隼の翼を手に入れろ 
  • 第六章 日米開戦 
  • 第七賞 アメリカ本土を直撃せよ 
  • 第八章 残された戦い 
  • 第九章 地上を選んだイカロスたち
  • エピローグ 富嶽、飛ぶ 


<メモ>

アルチザン artisan

職人。芸術批評の分野ではしばしばアルチスト(芸術家)と対立する語として使われる。技術的には熟練し精妙な腕を発揮しながらも、芸術的感動に乏しい作品を作る人々を批判的にいう言葉。しかし、いわゆる「職人芸」を見直す気運が高まるにつれ、この語自体の評価軸にも変化が見られる。

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説より

 

 

「良かった。ありがとう。会社は不景気で暇だから、空いている時間は好きなことを勉強していいよ。好きなだけ遊んでいいから」

素晴らしすぎる(; ・`д・´)

 

「だったら弟子でも見つけろ。俺は後輩の三竹忍にあれこれ教えているが、何かが見えてくる。知久平さんも奥井さんに教えて自身の翼を見つけたんだと思う」
「……自身の翼ですか」
タツとビールで温まりながら、二人はいつまでも飛行機について語り合っていた。

自身の翼…(; ・`д・´)


「中島に入社して以来、毎日のように頭を酷使していたら32歳にしてM字ハゲとなっていた」小山。技術者としての成長、糸川英夫との出会い、富嶽プロジェクトの挫折など、残酷ながらも技術者冥利に尽きる時代や仕事にありつけたんだなあ。

 

 

 ●設計者シリーズ

小山は気持ちを切り替えてマリーとロバンに図面のイロハを教わりながら、一緒に暮らすことにした。工場との連絡や試作に向けた材料の手配、各種の打ち合わせで多忙を極め、設計の基本を覚えるのに苦労したが、彼らと一緒に暮らすことで設計の概念が分かってきた。

 

パイロットは名誉をかけて戦っている。無責任な飛行機は創れない。設計は創れば終わりではない。何度も調整が必要だ。設計者は芸術家ではないんだ」

 

何もない平面に自分がペンを引き、職人たちが立体化させる。頭に浮かんだものを実際に手に取ってみると、部品の欠点も分かってくる。自分の想像の足りない部分も分かってくる。職人たちは欠陥品と分かっていても立体化させ、小山に改善点を教えてくれる。想像と図面が一致すると、職人たちはそれを知っていたかのように見事に仕上げてくれる。

これが…機械設計!

 

「どんな条件であろうと、それをまとめるのが技術屋なんだよ。条件が悪ければ、その条件をまとめてダメな部分を形にしろ。そこから「この条件をこうすれば良くなります」と見出すのが技術屋だ。頭の中で否定するな。形にして答えを見せるんだ」
いつしか「鬼の小山」と呼ばれていた。

設計は人の命がかかっている。絶対に妥協できない。

 

●中島シリーズ

航空機製造業者は中島飛行機以外に六社ある。日本屈指の財閥グループで陸海軍指定工場となっている三菱航空機。知久平と同じ時期にスタートした陸軍専門の川崎造船所。精密機械に定評がある海軍専門工場の愛知時計電機。陸海軍に発動機を納入している東京瓦斯電気工業。東京立川市に本拠を構え、石川島造船所が設立した、陸軍の機体を専門とする石川島飛行機製作所。中島飛行機の創業時代に喧嘩別れした、海軍の機体を専門とする川西航空機
どれも親会社やグループ会社が巨大で、小山は自身の腕だけでその六社に対抗できるとはとても思えなかった。

付録の戦中期の航空機生産状況を見ると、中島飛行機の急成長が窺える。

 

中島飛行機は大学出が少ないので、重要な仕事は入社一年目の若手に仕事が回っていた。東京のエンジン工場も実情は同じだった。工業専門学校を出たばかりの入社一年目が仕事のプランに対して、
「こうした方がいいんじゃないんですか?」
とアイディアを言うと、
「じゃあ、お前がそのプランを創ってみろ」
と返され、プランを提出し、採用されればその責任者になれる。同僚が出世すれば刺激になるので、新人たちは競い合うように次々と新しいアイディアを出しあった。

理研技術者の自由な楽園や(; ・`д・´)

 

製図室は相変わらずタバコの煙が支配している。将棋を指したり、ラジオの分解をしたり、盆栽の手入れをしている者もいる。水彩画を描いている者さえいる。
「何でみんな仕事をサボっているんですか?」
「気分転換の時期だ。製図の方針を決めるときは喧嘩になるし、決まったら連日徹夜だ。そのために今は英気を養っているんだ」
「はあ。三菱だったら考えられませんね」
三菱はマニュアルが徹底しており、それぞれ分担作業に特化している。対して中島は個を重要視する社風だった。「○○部長」「○○課長」と役職で呼ばない。さん付けかあだ名で通っていた。知久平の生き様のようにひと癖もふた癖もある社員が頭角を現す。

先進的(; ・`д・´)

 

社員のための娯楽関係は豊かで、剣道・柔道・弓道・相撲・野球・陸上競技・バスケットボール・卓球・テニス・グライダー・体操のスポーツ系もあれば、書道・絵画・写真・謡曲・短歌・俳句・詩吟・音楽・囲碁・将棋・釣り等の各種俱楽部に男女誰でも自由に出入りできた。女子専門の倶楽部の生け花は池坊、茶道は表千家、お琴教室は山田流という、東日本の最大流派を揃えていた。スポーツ大会や音楽大会も盛んに開催し、芸能人を呼んで毎日祭りのように賑やかだった。
昼間の太田の上空では常時、二、三機の飛行機が飛んでいた。

マンモス大学のサークル然(; ・`д・´)

 

様々な思い出がよみがえる。
フランス人に師事して創った初めての飛行機は失敗だらけだったが、四宮や松本キクとの出会いで道が開き、制式に採用されて陛下に紹介できるほど出世した。新型戦闘機の方針で孤立してしまったが、生意気な糸川英夫のおかげで理想的な九七式を完成させた。その九七式を超えるべく、格闘戦に特化させた隼と鍾馗を開発し、その二つを凌駕する疾風も完成させた。そして未完で終わった超大型飛行機の富嶽ジェット機の火龍。
もしもあのとき、知久平の誘いを断っていたら、自身の人生はどうなっていたんだろうか。国家の税金を使って飛行機を開発し、結局は敗戦してしまった。多くの若者の命を奪ってしまったというのに、楽しかった思い出しかよぎらない。俺はろくでなしの飛行機屋なんだろう。

同月四日。東京本願寺築地別院で知久平の盛大な葬儀が行われた。

 

二〇一七年四月。中島飛行機の創業から一〇〇年目となる節目の年に、富士重工業株式会社は、株式会社SUBARUと社名を変更した。独創的な研究と、乗員の安全を最優先する哲学は、今も脈々と受け継がれている。

 

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