【概要】
著者(監督):佐々木実
とにかく厚い。辞書かな。
のちにノーベル経済学賞を量産する米英の経済学の先頭集団にあって、何が彼を市場原理主義経済学の糾弾と「社会的共通資本」の提唱に向かわせたのか。
寄り道が多いのでかなりの数のサブキャラが出現する。そのため通読するのはかなり疲れるが、それは密度の高さの裏返しか。挫折防止のため、宇沢の熱意に触れたければ、とりあえず岩波新書の『自動車の社会的費用』を読んでみては。
【詳細】
<目次>
- リベラリズム・ミリタント
- 朝に道を聞かば夕に死すとも可なり
- ケネス・アローからの招待状
- 輝ける日々
- 赤狩りの季節
- カリフォルニアの異邦人
- 別れ
- シカゴ大学「自由」をめぐる闘争
- もうひとつのシカゴ・スクール
- 二度目の戦争
- 「陰(Shadow)」の経済学へ
- “ドレス"と“自動車"
- 反革命(The Counter‐Revolution)
- 空白の10年
- ローマから三里塚まで
- 未完の思想Liberalism
<メモ>
●宇沢
私は、宇沢が「経済学の『奥の院』にいた唯一の日本人だった」とのべた。その意味は、経済学者として顕著な実績を挙げたというだけでなく、1950年代後半から60年代にかけて、アメリカ経済学界の中枢メンバーのひとりだったということである。スタンフォード大学、シカゴ大学で研究をつづけた宇沢は、中堅若手の理論経済学者のなかで一、二を争う存在と目されていた。
ところが、アメリカ経済学界での評価が絶頂をきわめていたそのとき、宇沢は突如としてアメリカを去り、日本に帰国してしまった。シカゴから東京に居を移したのは、不惑を迎える1968年である。ベトナム戦争に動揺しはじめたアメリカから、高度経済成長の余韻さめやらぬ日本へ――場所の移動は、宇沢の経済学を根本から変えることになるのだが、有り体にいえば、「Hirofumi Uzawa」はこのころから行方不明となってしまった。アメリカの経済学者たち、世界の経済学者の前から忽然と姿を消したも同然だった。
宇沢の沈黙を破ったのが、東西冷戦の終焉だったのは偶然ではない。対抗する理論や思想を喪った、ポスト冷戦時代の資本主義をみすえ、宇沢は社会的共通資本という新たな概念を携えて理論闘争の最前線に戻ってきた。
《社会的共通資本は、一つの国ないし特定の地域に住むすべての人々が、ゆたかな経済生活を営み、すぐれた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を持続的、安定的に維持することを可能にするような社会的装置を意味する》(『社会的共通資本』岩波新書)
社会的共通資本の理論は、分析手法においてはまぎれもなく主流派経済学を踏襲しながら、新自由主義を産みおとした主流派経済学に対抗する理論として構想された。いささかアクロバティックな理論を構築してまで宇沢が問いたかったのは、市場原理が深く浸透する社会で「人間」はどうあるべきか、市場空間のなかで「社会」をつくり維持することは可能なのか、という切迫した問題だった。
グローバリゼーション の猛威によって、市場原理に輪郭を規定されてしまうような「人間」であってはならない。人間の側が、市場システムにあるべき「人間」の姿を可能とするような仕組みを埋め込むことで、真にゆたかな社会をもたらす市場経済をつくりだすことができる。
晩年の宇沢を突き動かしていたのは学問への情熱というより、焦燥にも似た憤りだった。いま、「人間」が資本主義に試されている――そんな危機意識を強く抱いていた。
●近現代経済学の大まかかな流れ
限界革命によって、古典派経済学は新古典派経済学に主役の座を譲ることになるが、新古典派経済学は階級間の対立という経済観を引き継がなかった。第3章で触れたように、微積分の数学を用いる限界分析を基本にすえ、「経済合理性に基づき判断を下す個人」から構成される社会を想定した。経済主体は究極的には経済合理性をもつ個人に還元されるので、階級という概念は消え去り、階級間の富の分配問題も後景へと退くことになった。限界革命は、経済学が描く社会のビジョンを塗り替えたのである。
おおざっぱに整理すると、アメリカ発の世界恐慌という現実を踏まえ、経済運営は基本的に市場システムの自動調整機能に任せておけばよいとする新古典派経済学がすっかり説得力を失い、代わって新古典派経済学を是正するためにケインズが著した『一般理論』が、とりわけ若い経済学者たちをとらえた。経済学という学問のなかで、新古典派経済学vs.ケインズ経済学という対立の構図が立ち上がり、後者が急速に勢力を拡大していったわけである。
1970年代後半以降、とりわけ20世紀終わりから、ケインズの思想を否定して、ケインズにかわり絶大な影響力をふるったのがミルトン・フリードマンである。市場システムへの絶対的な信頼のもと、「小さな政府」「規制の緩和、撤廃」「国営・公営事業の民営化」などを掲げ、市場での競争を阻害するあらゆる存在を批判し、政府の市場への介入を徹底的に戒めた。啓蒙書『資本主義と自由』(1962年)、『選択の自由』(1980年)はあまたのマーケット信奉者を産み落とすことになった。イギリスのマーガレット・サッチャー首相、アメリカのロナルド・レーガン大統領がそろってフリードマンの経済思想を受け入れた1980年代以降、フリードマンの思想は世界中に普及していった。
(週刊ダイヤモンド「5分でわかる!経済学三大思想「新古典派、ケインズ、マルクス」の流れ」より)
世界のなかで誰よりも早く、「ミクロ的な基礎をもつマクロ理論」の構築に向けて一歩を踏み出したのが宇沢だったのである。
私は、宇沢が、ジョーン・ロビンソンとロバート・ソロー、イギリス経済学とアメリカ経済学のあいだに橋を渡そうとしていたと指摘したけれども、見方を変えれば、もはやアメリカ経済学にもイギリス経済学にも寄りかかることができない場所で宇沢はたたずんでいた。
公害や環境汚染といった身近で切実な問題が経済学で十分に分析することができないのはなぜなのか。それは経済学という学問体系、知識の体系が自分自身の問題意識に根差したものではなく、どこかから与えられたものにすぎないからではないのか。
そこで、シャドウ・プライス(経済学では「帰属価格」と呼ぶ。いわゆる、「陰の価格」)の概念を導入して、将来の世代が二酸化炭素の蓄積によって受ける被害を計算し、それを社会的な割引率(通常は5%程度)で割り引 い て現在価値を計算する。そうすることで将来世代の損害を、現時点の価格として表現するわけである。将来世代はまだ生まれていないから意見を表明することができない。将来世代が受ける被害をシャドウ・プライスとして可視化して市場価格体系に組み入れ、あたかも「生産コスト」のように扱うことで現在世代の経済行動に反映させようという考え方である。
そうであれば、地球温暖化問題も三里塚問題も、社会的共通資本という枠組みのなかで同時に考察することができるはずだ。これまでに新古典派経済学者として成し遂げてきた成果を含め、自分の経済学を社会的共通資本という大きな枠組みのなかでとらえ直すことができるのではないか。そんな展望が開けてきた。60歳代半ばにして、宇沢経済学の構想がようやく見えはじめたのである。
おもうに、ひとりぼっちというのはかならずしも寂しい状況を指すわけではない。宇沢弘文はいつも単独だった。とぼとぼ歩き、ときには走って、さがしつづけた。片手に重たそうな本、もう片方の手にはカラッポの鳥かごをさげ、
「青い鳥をさがしてるんだけど、キミたち知らないかい?」
子供たちにたずねたあのときのように。
同級生・速水融
「とにかくね、ウザワはなにをやっても破格でした」
妻・浩子
「生き方が不器用な感じがしましたね。ただ、物事を深く考えることができる人だなっていうのはわかりました」
同時代の経済学者アカロフ
「日本語ではHiroだけど、ここアメリカでは彼はHero(英雄)だったんですよ」
ヨハネ・パウロ二世
「この部屋で、私に説教したのは、お前が最初だ」
●その他リンク
岩波新書 of 宇沢。