Javaさんのお部屋(サム・ジーヴァ帝国図書館)

Javaさんのお部屋です。引っ越しました。詳しくは「はじめに」を読んでね。スマホ版は全体像が見えにくいから、PC版と切り替えながら見てね。

アンパンマンの遺書

アンパンマンの遺書 (岩波現代文庫)

【概要】
著者(監督):やなせたかし

いつ死んでもおかしくない激動の時代だった。ぼくはなんとか生きのびてきた。今は人生のオツリか、附録のようなものだ。しかし附録が本誌よりも豪華ということもある。ぼくの附録は意外に良かった。

アンパンマンはぼくの子供であり、ぼく自身でもある。この遺書はアンパンマンを通じて世間へ公開するかたちをとった。

某cotenにて興味を持ち。自虐気味だが、読み手を喜ばせようとするサーヴィス精神が感じられるストーリー展開と語り口が面白い。けっこう優秀で器用貧乏なのだが、なかなか芽が出ずに苦労した。基本的に喜劇調なのだが、たまに人生の心理を剔抉したりもする。

正義は或る日突然逆転する。
正義は信じがたい。
ぼくは骨身に徹してこのことを知った。これが戦後のぼくの思想の基本になる。
逆転しない正義とは献身と愛だ。それも決して大げさなことではなく、眼の前で餓死しそうな人がいるとすれば、その人に一片のパンを与えること。これがアンパンマンの原点になるのだが、まだアンパンマンは影もかたちもない。

 

東京高等工芸学校で薫陶を受け、軍隊生活で壮健になったたかし。三越包装紙のデザインや「手のひらを太陽に」の作詞、演劇やラジオその他いろいろな分野で酵母を蒔き続けていた。ほかにも週刊朝日の漫画賞受賞、虫プロの「千夜一夜物語」へのキャラデザ担当、『詩とメルヘン』編集長就任、いろいろやってきたのだが、ついにアンパンマンがバズる。アニメ化、妻との瑞宝章受章まで果たすまでに出世。

ある日気がついてみるとほとんどの人がいなくなってしまった。いつの間にやらぼくは先頭集団にいて収入も多くなり、に日本漫画家協会の理事長とかいろんな公職も引き受けるようになるのだからたまげてしまう。一体なにが起きたんですかね。本人にはまだよく理解ができない。

波瀾万丈の人生に、生きるよろこびを感じよう。

 

【詳細】

<目次>

故郷の空/貧乏坊ちゃん/数学駄目人間/制服は背広/銀座学校/卒業はしたけれど/地獄の軟弱マン/空白地帯/国破れて/焦土から/ハンドバッグと西瓜

ツッパリ社員/三越の包装紙/レモン画翠成功譚/無名時代は続く/ストライキもあります/潜在失業者のように/漫画学校の先生/超天才手塚治虫谷内六郎の衝撃/永六輔の来訪/宮城まり子/焦土のひまわり/ハローCQ/最初の詩集/ミスター・ボオ/やさしいライオン/運命の電話

三つの出発点/幼児という批評家/バッハとつきあう/おむすびまんとエルジェ/カミさんとぼく/アンパンマンの始動と昭和の終り

平成の夜明けと奇跡の出発/アンパンマンの勲章/鎮魂/墓標/四コマ目のオチ

  • 九十四歳のごあいさつ

 ――「岩波現代文庫あとがき」に代えて

 

<メモ>

www.anpanman.jp

 

人生の序盤。

いつ死んでもおかしくない激動の時代だった。ぼくはなんとか生きのびてきた。今は
人生のオツリか、附録のようなものだ。しかし附録が本誌よりも豪華ということもある。ぼくの附録は意外に良かった。

アンパンマンはぼくの子供であり、ぼく自身でもある。この遺書はアンパンマンを通じて世間へ公開するかたちをとった。

アンパンマン、君はさしてハンサムではないが、優しい性質はぼくからひきついでいるのだ。

つまりイージーである。このイージーなところが、ぼくの運命の星となる。すべてイージーゴーイング

しかし、子供の時に光と風と緑の中で、紫外線を全身に浴びながら、兎追いしかの
山、小鮒釣りしかの川、みたいな生活をたっぷり味わったことは、ぼくのためには良
かった。子供の時は自然の中で遊んでいた方がいい。基礎本力をつけた方がいい。勉
強はもう少しおそくていい。
やがて世間の荒波の中でたたかわなければならない時がくる。その時に勝敗を決するのは結局は体力だ

 

過剰なほどの顔面コンプレックス、父の早世、人並みの青春の苦悩を経て、東京高等工芸学校に合格。ファッション自殺未遂もやってしまったりする。

「ぼくの生き方、人生の考え方の基本はすべてこの学校で学んだ」
「でも楽しかった。面白かった。学校へ行くのがうれしかった」
「ぼくらは毎日遊びながら、一番大切なものを学んだ」

 

軍隊生活には意外と適応し壮健になる、たかし。
中国では宣撫班よろしく紙芝居、敗戦後の軍隊コミュニティでは壁新聞・劇作家をこなすエンターテイナー・クリエイター気質を発揮。

帰国すると弟が千尋の海に沈んだことを知る。

正義は或る日突然逆転する。
正義は信じがたい。
ぼくは骨身に徹してこのことを知った。これが戦後のぼくの思想の基本になる。
逆転しない正義とは献身と愛だ。それも決して大げさなことではなく、眼の前で餓死しそうな人がいるとすれば、その人に一片のパンを与えること。これがアンパンマンの原点になるのだが、まだアンパンマンは影もかたちもない。

 

高地新聞小松記者といい感じになり、「やなせさんの赤ちゃんが産みたい」とゴールイン。三越宣伝部でデザインもやっているのだが、

まだ、前途は漠然としていた。眼の前には無限大の高さの白いすべすべした巨大な壁があって、どこにも入口は見えなかった。

自分はいったい何なのか?
職業不明である。漫画家としても、デザイナーとしても、世に認められていない。昨日までのサラリーマンでもない。

ぼくは四十歳を越えてもまだ自分の方向がまったくわからず、五里霧中で、挫折どころか、出発さえしていなかった。

ぼくは要するに何をやっていいのか解らなくて、眼の前にくる仕事はなんでもひきうけてその日暮しの生活をしていただけだ。

 

「手のひらを太陽に」など、いろいろな分野で酵母を蒔き続けていた、たかし。

週刊朝日の漫画賞受賞、虫プロの「千夜一夜物語」へのキャラデザ担当、『詩とメルヘン』編集長就任。その傍らでひっそりとアンパンマン誕生。

「漠然とした自分の仕事の中に、ひとつのやなせたかしという標札ができた」
「しかし、ぼくは思う。数字じゃない、スピリットなんだ」

最初に認めたのは、三歳から五歳ぐらいまでの幼児だった。(中略)
なんの先入観もなく、欲得もなく、すべての権威を否定する、純真無垢の魂をもった冷酷無比の批評家が認めた。

 

アニメ化、妻との瑞宝章受章まで果たす。

ぼくら夫婦には子供がなかった。妻は病床にアンパンマンのタオルを積みあげて、看護婦さんや見舞客に配っていた。アンパンマンがぼくらの子供だ。

 

振り返ってみて曰く、

ある日気がついてみるとほとんどの人がいなくなってしまった。いつの間にやらぼくは先頭集団にいて収入も多くなり、に日本漫画家協会の理事長とかいろんな公職も引き受けるようになるのだからたまげてしまう。一体なにが起きたんですかね。本人にはまだよく理解ができない。

 

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