Javaさんのお部屋(サム・ジーヴァ帝国図書館)

Javaさんのお部屋です。引っ越しました。詳しくは「はじめに」を読んでね。スマホ版は全体像が見えにくいから、PC版と切り替えながら見てね。

出家とその弟子

出家とその弟子 (岩波文庫 緑 67-1)

【概要】
著者(監督):倉田百三
大正教養主義の代名詞。「運命がお前を育てているのだよ。ただ何事も一すじの心で真面目にやれ」の台詞にみられるように、100年の時を越えても色褪せぬひたむきさと純真さを掴み取れる。久々に再読(8年ぶりぐらい?)。

「このままで、このままで」「みんな助かっているのではなかろうか」
すべては阿弥陀の摂取につつまれ救われる。
左衛門も、唯円もかえでも、そして親鸞でさえも。

明治のひたむきさと情熱の残滓、大正時代前半の明るさと大衆性、若き百三の純な気持ちと真摯さ…そういったものの奇跡的な融合体が、百載の後も新しき読者を得、彼らの心を惹きつけるんだなあ。ちなみに百三が追憶して曰く「あれをセンチメンタルだと評する人もあるが、あの中には【運命に毀たれぬ確かなもの】を追求しようとする強い意志が貫いているのだ」とのこと。

 

<メモ>

私たちの魂の真実を御覧なさい。私たちは愛します。そして赦します。他人の悪を赦します。その時私たちの心は最も平和です。私たちは悪い事ばかりします。憎みかつ呪います。しかし様々の汚れた心の働らきの中でも私たちは愛を知っています。そして赦します。その時の感謝と涙とを皆知っています。私たちの救いの原理も同じ単純な法則です。魂の底からその単純なものが蘇って来るのです。そして信仰となるのです。


親鸞唯円というキャラクターをうまく使って、浄土真宗に基督教を練り込み、人間の悲哀世界のうつくしさ信仰のけだかさを謳いあげた名作。
ロマン・ロランによれば、「キリストの花であり仏教の華である。すなわちユリの花でありハスの花である」。
 

運命がお前を育てているのだよ。ただ何事も一すじの心で真面目にやれ。ひねくれたり、ごまかしたり、自分を欺いたりしないで、自分の心の願いに忠実に従え。それだけ心得ていればよいのだ。 

これ、人生の指針ね(๑╹ω╹๑ )


師・親鸞の言葉を胸に、周りの白眼視に苦しみながらも、とめようのない力で恋にのめり込む唯円
彼とかえでの逢引きはいとおしい。見ているこっちが身悶えするくらいだ。

かえで (唯円に寄り添う)私も遇いたくて。あいたくて。(涙ぐむ) 

 

唯円 (痙攣的にかえでを抱く)永久にあなたを愛します。あなたは私のいのちです。
かえで (唯円の胸に顔を押し当てる)いつまでも可愛がって下さいよねえ。
唯円 いつまでも。いつまでも。

 

二人しばらく沈黙。
唯円 かえでさん。
かえで はい。
唯円 かえでさん。かえでさん。かえでさん。
かえで まあ。(眼をみ張る)
唯円 あなたの名が無暗と呼んで見たいのです。いくら呼んでも飽きないのです。
かえで (涙ぐむ)私はあなたといつまでも離れなくてよ。墓場に行くまで。
唯円 私は恋の事を思うと死にたくなくなります。いつまでも生きていたくなります。

 

私はどうしても恋を悪いものとは思われません。もし悪いものとしたら何故感謝と涙とがその感情にともなうのでしょう。彼の人を思う私のこころは真実に充ちています。胸の内を愛が輝き流れています。湯のような喜びが全身を浸します。今こそ生きているのだというような気が致します。
(中略)
お師匠様がおっしゃいました。宗教というのは、人間の、人間として起してもいい願いを墓場に行くまで、いかなる現実の障碍にあってもあきらめずに持ちつづける、そしてその願いを墓場の向うの国で完成させようというこころをいうのだって。
あの小さい可憐なむすめ、(中略)
(熱に浮かされたようになる)彼の女とともに生きたい、どこまでも、いつまでも。


こういった幕の区切り方、その内容がドラマティックでいいんだな。
恋に生きる唯円、死に際の親鸞、登場人物のリズミカルな、たたみかかけるようなセリフは一読の価値がある。
親鸞の「聖なる恋は他人を愛することによって深くなるようなものでなくてはならない」という言葉も胸にしまっておきたいよね。

今こそすべての矛盾が一つの深い調和に帰しようとする。そしてこの世での様々の苦しみが一つとして無駄ではなかったことが解ろうとしている。
(しみじみした独白の如くになる)なにもかもがよかったのだな。わしのつくったあやまちもよかったのだな。わしに加えられた傷もよかったのだな。往きずりにふと挨拶を交わした旅の人も、何心なく摘みとった路のべの草花もみなわしとははなれられない縁があったのだな。みなわしの運命を成し遂げるために役立ったのだな。

 

それでよいのじゃ。みな助かっているのじゃ・・・・・・善い、調和した世界じゃ。
(この世ならぬ美しき顔に輝きわたる)おお平和! もっとも遠い、もっとも内の。なむあみだぶつ。


[21.9追記分]

親鸞シリーズ

私たちは生まれている。そしてこの世界は存在している。それならその世界は調和したものでなくてはならない、何処かで救われているものでなくてはならない、という気がするのです。私たちが自分は悪かったと悔いている時の心持の中には何処かに地獄ならぬ感じが含まれていないでしょうか。こうしてこんな炉を囲んでしみじみと話している。前には争うたものも今は互いに許し合っている。何だか涙ぐまれるような心地がする。何処かに極楽がなければならぬような気がするではありませんか。

 

善くなろうとする願いを抱いて、自分の心を正直に見るに耐える人間はあなたのように苦しむのが本当です。私はあなたの苦しみを尊いと思います。

 

しかし私は善くなろうとする願いは何処までも失いません。その願いが叶わぬのは地上のさだめです。私はその願いが念仏によって成仏する時に、満足するものと信じています。私は死ぬるまでこの願いを持ち続けるつもりです。

 

私はこのようにして沢山な人々と別れました。私の心の中には忘れ得ぬ人々の俤があります。今日からあなた方をその中に加えます。私はあなたがたを忘れません。別れていてもあなた方のために祈ります。

 

(あわれむように唯円を見る) お前の淋しさは対象によって癒される淋しさだが、私の淋しさはもう何物でも癒されない淋しさだ。人間の運命としての淋しさなのだ。それはお前が人生を経験して行かなくては解らない事だ。お前の今の淋しさは段々形が定まって、中心に集中して来るよ。その淋しさを凌いでから本当の淋しさが来るのだ。今の私のような淋しさが。しかしこのような事は話したのでは解るのではない。お前が自ら知って行くよ。

 

「若さ」のつくり出す間違いが沢山あるね。それが段々と眼があかるくなって人生の真の姿が見えるようになるのだよ。しかし若い時には若い心で生きて行くよりないのだ。若さを振り翳して運命に向うのだよ。純な青年時代を過さない人は深い老年期を持つ事も出来ないのだ。

 

強い人はその淋しさを抱きしめて生きて行かねばならぬ。もしその淋しさが人間の運命ならば、その淋しさを受取らねばならぬ。その淋しさを内容として生活を立てねばならぬ。宗教生活とはそのような生活の事をいうのだ。耽溺と信心との岐れ道は際どいところに在る。まっすぐに行くのと、ごまかすのとの相違だ。