Javaさんのお部屋(サム・ジーヴァ帝国図書館)

Javaさんのお部屋です。引っ越しました。詳しくは「はじめに」を読んでね。スマホ版は全体像が見えにくいから、PC版と切り替えながら見てね。

対馬藩江戸家老 近世日朝外交をささえた人びと

対馬藩江戸家老 (講談社学術文庫)

【概要】
著者(監督):山本博文 

お盆に対馬行っていた勢、フェリー乗り場で購入。幕府―対馬―朝鮮の各担当者のやりとりを克明に復元し、各ステークホルダーがそれぞれの思惑や立場で懸命に闘っていたことがうかがえる。したたかさとメンツが大事! 描写が細かすぎて眠くなるが。

 

【詳細】
<目次>

  • 第1章 幕府の威光と日朝外交(江戸時代初期の朝鮮通信使の特質;異国の使節と日本の威光 ほか)
  • 第2章 吉宗、将軍となる(土屋政直、朝鮮御用に再任;告訃参判使と告慶参判使 ほか)
  • 第3章 江戸家老かく戦えり(幕府勘定方からの問いあわせ;朝鮮貿易衰退の原因 ほか)
  • 第4章 通信使がやってくる(派遣の要請;対馬藩、拝借金を嘆願す ほか)
  • 第5章 対馬藩の「役儀」(朝鮮ルートの対外情報;吉宗、異国の馬を望む ほか)


<メモ>

  • 「できるだけ現実の交渉の場を再現することに重きを置いた」ということで関係各所の行動や手続き、文書のやりとりが詳細に再現される。近世日本の文書行政の徹底ぶりと資料の残り具合がすごい。
  • 日朝貿易は元禄元禄期がピークで貨幣改鋳で衰退に向かった模様。本音と建前が入り混じる中、名を捨てて実を取る対馬藩、メンツにこだわる朝鮮の使者。
  • 幕府も対馬藩に日朝貿易を丸投げしすぎて情報操作は思いのままだった模様(柳川事件でやらかすが)。十万石格を認められていたのも対馬藩の特殊性を表している。

 

対馬は、宮本常一氏の著作に示されるように民俗学調査の宝庫であり、亀トなどの宗教学的に珍しい風習もある。日本史家にとっては、中世史料の宝庫として有名である。対馬には、古文書尊崇の風習があり、今でも全島に豊富な中・近世史料が残されているのである。

 

(朝鮮との講和交渉は家康主導ではなかった模様)
このことは、この講和交渉が、朝鮮との貿易を誰よりも必要としていた対馬藩の意思に発するものだったことを示している。島内で米がほとんど取れず、自給自足が不可能であった対馬藩にとっては、朝鮮との貿易が中世以来不可欠のものとなっていた。それが秀吉の朝鮮侵略によって無に帰したわけであるから、何とかしなければならなかった。

 

すなわち、対馬藩においては、藩主権力に深刻な危機があったため、幕府の要求がより増幅したかたちで朝鮮に投げかけられ、朝鮮においては代替りにともなう混乱と後金の侵入という内憂外患があったから譲歩を重ねるというかたちで、本心はともかく両者の国交はより親密にならざるをえなかったのである。

 

江戸時代の日朝外交は、綱わたりのようなものであった。互いに主張するところは正反対である。朝鮮は対馬を一藩臣として扱い、日本を蛮夷と見ながら、南辺の安全のために節を屈して対等の関係を結んでいる。幕府は、通信使を「来朝」と称し、朝貢国扱いしながら、非常に丁重な饗応で迎える。両国ともに、交隣関係を継続することだけが必要だった。この切れようとする綱をなんとかつなぎ止めたのは、偽りや屈辱をものともしない対馬藩の努力であったといえよう。

 

対馬藩は、その立地と歴史的な条件とから、ときには「誠信」を唱え、ときには脅し、ときには屈辱をものともせず、両国関係の継続に力を尽くしてきた。ある意味で、このような存在があったからこそ、江戸時代の日朝関係は、朝鮮通信使に象徴される平和で友好な外観を呈することができたのかもしれない。

外観なのね(; ・`д・´)