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法然と親鸞の信仰

新版 法然と親鸞の信仰 (講談社学術文庫)

【概要】
著者(監督):倉田百三

某ょべらす氏に触発される。『一枚起請文』『歎異抄』を主テクストとして、法然親鸞の生涯、その信仰と発展を百三イズムを多分に取り入れながら熱く語る。

 

信仰というものは生きるために必要な、日々夜々欠くことの出来ない、 実際に役立つものでなくてはならぬ。心の平和のためにも、また身体をいわゆる肉弾となして、実生活にぶっ突かって行く時にもなくてはならない最後の「拠りどころ」でなくてはならぬ。

 

生活そのもの、生きる事がそのまま信仰なのである。これが信仰の極致で、いわゆる「一枚の信仰」というものである。関係というのは二つのものが分れていて初めて成り立つ概念であるが、一枚の信仰だから関係ではない。生きることのそのままが信仰、「なむあみだぶつ」となるのである。

 

【詳細】
<目次>

  • はしがき
  • 上篇 一枚起請文を中心として
  •  第一章 内容一般
  •  第二章 法然の生涯(その時代的背景)
  •  第三章 一枚起請文講評
  • 下篇―歎異鈔を中心として
  •  第一章 内容一般
  •  第二章 親鸞聖人の生涯
  •  第三章 歎異鈔講評
  • 後書
    解説(稲垣友美


<メモ>

〇全般

信仰というものは生きるために必要な、日々夜々欠くことの出来ない、実際に役立つものでなくてはならぬ。心の平和のためにも、また身体をいわゆる肉弾となして、実生活にぶっ突かって行く時にもなくてはならない最後の「拠りどころ」でなくてはならぬ。信仰は伊達でも装飾でもない。

 

生活そのもの、生きる事がそのまま信仰なのである。これが信仰の極致で、いわゆる「一枚の信仰」というものである。関係というのは二つのものが分れていて初めて成り立つ概念であるが、一枚の信仰だから関係ではない。生きることのそのままが信仰、「なむあみだぶつ」となるのである。

 

私はこの二人の聖人の信仰を語るのに、一枚起請文と、歎異鈔とをテキストとして用い、できる限りは他の経典や論釈によらぬことにした。

 

法然

▶一枚起請文(「これは暗記してほしいものだ。」)

  • 「ただ往生ごくらくのためには南無阿弥陀仏と申してうたがひなく往生するぞとおもひとりて申す外には別のしさい候はず」
  • 「念仏を信ぜん人はたとひ一代の法をよくよく学すとも一文不知の愚鈍の身になして尼入道の無智のともがらに同して智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし

 

およそ法然ほどあらゆる階級、あらゆる種類の人々に結縁して、帰依を得、法を説き得たものは、釈迦を除いては世界に類比がないと言っていい。天皇、門院、関白、公卿、将軍、武士より盗賊、遊女に至るまでことごとく結縁して教化している。未見の善男子、善女人にして、法を聴いて歓喜信受したものは数限りがない。

 

しかし浄土門はそういう要求の法門とはちがう。それは揚子江の川口の海のように、黄いろく濁った大海に、さんさんと降りそそぐ太陽の光のようなものである。この火宅無常の娑婆世界に、毎日毎日の塵労に疲れて喘ぎ、生の本能に催されて、欲望し、愛憐し、喜び、また悩んでいる、善悪無数の凡夫人、それらがつくりなしている現実の人間世界を、それが善かろうが、悪かろうが、清かろうが、濁っていようが、斉しくこれ人間としての運命、うつそみとしての制約の下に繋縛されて、生死を離れ得ない者と見て、一挙にしてこれを救済しようとする、大慈大悲の念願より生じた法門である。

 

法然がこの広汎なる聖教を渉猟して、よくその中より、生死の一大事に関する肝要を掴みとって、曳き出し、しかも一々聖教と先師に典を置きつつ、一宗を創設して、深奥なる大乗の玄旨を、単純きわまる六字の名号に圧搾して、これを凡俗大衆の所有に帰せしめたことは、讃嘆してあまりある事である。まことに広大無辺な法施といわねばならぬ。釈迦を除いては比肩するものなき大導師である。後代は永く彼に感謝をささげるべきである。

 

親鸞

親鸞はかく師に対しては敬虔でありつつも、信仰においては、法然の不徹底を斥けて、法然の信仰の当然発展すべきであった方向に発展せしめた。彼はそれゆえに最も正しき意味で法然の後継者であったと言うべきである。親鸞によって、初めて浄土門の信仰および実践は完成したのであった。そこで、われわれはこれから、親鸞の生涯と、その信仰の真髄とを研究すべき時に達したのだ。

 

歎異鈔は、私の知っている限り、世界のあらゆる文書の中で、一番内面的な、求心的な、そして本質的なものである。文学や、宗教の領域の中、宗教の中でも最も内面的な仏教、その中でも最も求心的な浄土真宗の一番本質的な精髄ばかりを取り扱ったものである。コーランや、聖書もこれに比べれば外面的である。日蓮や、道元の文章も、この歎異鈔の文章に比べれば、なお外面世界の、騒がしいひびきがするのである。

 

日本にこういう文書の存在することは世界に誇るべき事であり、意を強くするに足る。そして日本語と文章との表現力のいかにすぐれたものであるかを立証しているものである。威厳と礼儀と抑揚と粘りとをかね具え、人間の心理のモメントの機微、情緒の曲折にそのままぴたりと一つになって変転し得ること、さながらヴァイオリンの表現力のごとくである。実に歎異鈔はこの点散文よりも韻文に近いといっていい。

褒めちぎる。時代のためか国粋主義的な匂いもなくはないが(; ・`д・´)

満洲進出の正当化も後知恵ではあるが時代性を感じるのだ。

 

腹が据わらずに、頭が利巧になる現代の、知識階級の青年は深くこの点を考えなければなるまいと思うのである。何によらず、物事を正面から押して、本格的に、堂々と進んで行くのには、沈着な、鈍重な、どこかに愚直なところが要るのであって、それはただ頭の力では出来るものでない。馬鹿な目を見ることのいやな人は大人物ではない。法然でも、親鸞でも、この「愚」というものの尊さをよく知っている人であった。

それはそうかもね。

 

この「故親鸞聖人の御物語の趣、耳の底に留まるところ」と言う辺りに、唯円がいかにも過ぎた旧師に給仕して、師の口からもれるのを聴いた時の場面を思い出しているという感じが出ているのである。

 

弥陀の誓願不思議を何のことわりもなく、いきなり冒頭に持ち来ったところに、歎異鈔の作者の信仰の深さの度合いが解るのである。これは堂々としているという以上、ひとつの宣言、仏勅というような、神聖の感があるのである。

 

しかしここが「信」の世界なのだ。「弥陀の本願」は全く天降り的臨在である。それが天降り的であればこそ第一原理であるに堪え得るのだ。論理的に証明されたものは、また他の立場から、論理的に疑われる。証明を求める心がもう信の心ではない。

 

浄土真宗の信仰は此土の穢汚を悲しみつつも、われわれの生命を地上に引き、浄土の清さにあこがれながらも、この世界に愛着の断ち切れない心に成立するのである。

 

人間の理知のはたらきというものは何でもものを区別し、分析する事がもとになる。それで「頭のいい」人に限ってものを弁じ別けたがるものだ。ところで全一なものを二つ以上に分ければ、その分けられて出来たおのおののものを集めても、もとの全一なものにはならなくなる。一つの茶碗を二つに割ると、欠らになってしまう。茶碗の生命が毀れてしまうからだ。全一というものは部分の集合ではなく、ひとつの精神、生命で統合されている不可分である。部分に切り離すときには気のぬけた形骸の部分になり、生きた全体の部分ではなくなる。

 

誓願不思議が浄土宗のアルファであり、オメガーである。

 

それでは浄土真宗の信者はこの世ではどこまで行けるのか。
それは前にも言った正定聚の位までだ。もう六道に輪廻することはないと安心を持ち、命終れば仏になれるという確信を持った、安心と希望との境涯だ。そしてこの世では、善悪を業報にさしまかせて、のびのびと手足を延ばして自由に活動し、享楽し、人間らしく喜び、悲しみ、愛し、また欲望し、その生活の全過程において、弥陀の大慈大悲を感恩しつつ、義務としてではなしに、自ずから、その慈愛を、共存同悲の衆生にあやからしめたいと心を砕くのだ。そしてたとい踏み外してもそこは平らかな青畳の上であり、み仏の舟の中での出来事に過ぎないのだ。

 

〇百三といえば

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