訳:沓掛良彦 横山安由美
【概要】
書簡体に託した愛と信仰の告白。まさに事実は小説よりも奇なりで、運命は彼らに肉薄していた。900年前の人間のあつき血汐、いまと何ら変わることのない人間の愛欲と悲哀を感じる。行間からエロイーズの「そんな言葉を聞きたいんじゃないの」という訴えが聞えてくるようだ。
【詳細】
男女共訳。
訳者曰く、「男はまったく変わり、女は少しも変わらなかったのである。この「愛の書簡集」から我々が読み取れるのはその落差が生む悲劇であり、悲哀だと言ってもよい」。
新旧訳聖書、セネカ、キケロ、アウグスティヌスなどの頻繁な引用からは、二人の知的レベルが窺える。
<第1書簡 厄災の記>
アベちゃんの半生記。
・パリにおける弁証学の王者として君臨、有頂天になる。
私は、この世には私を措いて哲学者はないものと思い上がって、この上はどんな攻撃も恐れるに足らずと思うに至り、それまでは謹厳そのものの生活をしてきた私が、肉欲の手綱をゆるめるに至ったのです。
・口実を設け、才媛エロイーズの家庭教師となり愛欲の海に溺れる。
学問という名を借りて、私たちは愛にそっくり身をゆだねました。愛が必要とする秘められた場所を、学問に励むという名目が与えてくれました。本が開かれてはいても、その講読に関することばよりは愛に関することばが交わされ、ことばの意義を論ずるよりは接吻を重ねることのほうが多かったのです。私の手は書物よりも彼女の胸へと伸びたものでした。書かれていることをたどるよりは、愛をたたえた眼を見つめあいました。
(中略)
こうして私たちは、愛欲に燃える者が味わう愛のすべての段階をきわめつくし、思いつくかぎりの珍しい愛の戯れをも楽しんだのでした。この種のよろこびを経験したことがなかっただけに、いっそう熱をこめてそれに熱中し、飽くことがなかったのです。
・二人の秘め事はやがて人々の知るところとなり、エロイーズの妊娠、彼女との結婚、親族の虐待、女子修道院への避難というイベントがつぎつぎに発生。そして…
ある晩のこと、私が自宅の奥まった部屋で静かに眠っておりましたときに、金を握らせて私の召使の一人を買収し、残酷きわまりない、この上なく恥ずべき復讐を私に加えて、世人を驚愕させたのです。つまりは彼らは、彼らの不満を買った行為を私がなした、私の体の一部を切断したのでした。
・タマタマと一緒に憑きものが落ちた。神学研究に専心するも、修道院での迫害・暗殺未遂に苦悩する。
私は自分こそ万人の中で最も不幸な人間だと思いました。
あたかも全世界が一丸となって私に対する陰謀をめぐらせているかのように感じて、すっかり絶望してしまいました。
<第2書簡 From:エロイーズ To:アベラール>
・元カノからメッセージ。
神かけて申し上げますが、もし、この世をあまねく支配する皇帝アウグストゥスが光栄にも私に結婚を申し込まれ、とこしえに地球すべてがお前のものになるぞと約束されたとしても、そのひとの皇后であることよりも、あなたの情婦とみなされることの方が、私にとっては喜ばしいことであり、名誉あることなのです。
うら若いこの身を苛酷な修道生活の中に閉じ込めたのも、信仰心からではなく、ひとえにあなたのご命令あればこそでした。それなのに、もしあなたから何も得られないのならば、これまでの苦労はいったいなんだったのでしょう。この点について、神がなにか報いてくださるなどとは、いっさい期待していません。神への愛から行ったことなど、何ひとつないからです。神のみもとへと邁進されるあなたの後を、私も修道服をまとって追いかけました。
<第3書簡 From:アベラール To:エロイーズ>
・アベちゃん、元カノに説教臭い塩対応。
<第4書簡 From:エロイーズ To:アベラール>
・エロちゃん、爆弾発言。神の福音よりも貴方の唇が欲しいの。
あなたと分かち合った愛の歓びは、私にとって、それは甘美なものでしたから、私がそれを不快に思うことなどありえませんし、およそ記憶から消えることもないでしょう。どちらを向いても、私の前に立ちはだかるのはその歓びであり、それは欲望をかきたててやみません。
眠っているときでさえも、その幻影がつきまとってきます。ひときわ清らかなお祈りを捧げなくてはならない、そういう厳かなミサのさなかでも、私たちの淫らな交歓の幻影が哀れな私の魂を襲ってきますので、お祈りよりもいかがわしい妄想に夢中になってしまうのです。犯した罪を嘆きわびなくてはならない私ですのに、むしろ失った歓びを想ってため息をついてしまうのです。
いいえ、私たちのしたことばかりではありません。事に及んだその場所や、その時間までもが、あなたの面影とともに私の心にくっきりと刻み込まれていますから、心の中で、あなたと一緒に、また同じことをやり直すのです。眠っているときも、その幻から解き放たれることはありません。ときどき、胸中の想いが、うっかり身体の動作として出てしまったり、不意に口をついて出てしまったりすることがあります。ああ、ほんとうに私は不幸です。
人は私を貞潔だと言います。でもそれは、私が虚妄の仮面をかぶっているのを知らないからです。
私が強いなどとは、思わないでください。あなたの腕に飛び込むよりも先に、よろめいてしまうかもしれません。
<第5書簡 From:アベラール To:エロイーズ>
・心身ともに賢者モードとなり塩対応を崩さない。愛の言葉を交わしていたころの面影は、タマタマとともに消えた。
神はまるで泥沼にでも落ち込んだも同然の私を汚濁から救い出し、私の心からも肉体からも、穢れをそぎ落してくださったのです。それに、私はもはやけがらわしい肉欲に耽る道をすっかり断たれたので、聖なる祭壇に仕えるのに、いっそうふさわしい身となることができました。
お願いですから、私にではなくこのお方(キリスト)に、あなたの敬虔のすべてを捧げ、全面的に同情し、悲嘆のすべてを捧げてください。