【概要】
著者(監督):緒方貞子
私の判断の拠り所となったものは、ただひとつ、彼らを「救わなければならない」ということであった。
この基本原則(プリンシプル)を守るために、私は行動規範(ルール)を変えることにした。
「忙中日記」の名の通り、講演、インタビュー、視察、会議、懇談・会食、フランス語レッスン、執筆など鬼のようなスケジュールを老体でこなす体力・知力おばけ。さすが世界各地を飛び回る「小さな巨人」。「UNHCRの仕事はその八割が現場にある」との言葉通り、ただの学究の徒ではなく現場・現実主義を貫いたようだ。
淡々とした動静の記録かと思いきや、「経済制裁は、弱い人を苦しめる」「多少オプチミストでなければ、こんな仕事はできない」などの所感がポツリ。「テヘランの夜空のもと、バースデ・ーケーキを切る」「帰還難民の歓迎は楽しい」など、過酷な現実の中にも楽しい瞬間は確かにあった。
各国大使・公使、政府機関の職員、国連・国連軍など多種多様なステークホルダーと渡り合う豪傑だったようだ。マンデラやリー・クアン・ユー、アラファトなど、もはや歴史上の人物(彼女自身も)と会ったりもしている。NHKの番組でやっていたが、着任早々いろんなことを聞いて聞いて聞きまくるお人だった模様。
UNHCRの活動にはお金が必要なのでロビー活動も欠かさない。国際社会の注目を集めないと支援してくれないこと、紛争は政治の問題であるため救済だけでなく権力側への働きかけ・開発発展による紛争の解消も行うべきことなど、ルールに囚われない現実主義者としての面をうかがい知れる。曰く、権力に対峙するのではなく、いわば「取り込む」ことが問題解決には重要であるとのこと。
若者にはグローバルな問題を自分事としてとらえることが重要と説く。
最後に一言。難民高等弁務官は、難民の生命を救い、彼らの苦しみを和らげることに多少役立つことはできる。だが、紛争を解決することはできない。世界の政治指導者の勇気と決断に期待するのみである。
彼女がいま生きていたら、ウクライナ戦争やパレスチナ戦争についてどう思い、どう行動しただろうか…。
【詳細】
<目次>
- 1 ジュネーブ忙中日記(一九九三年;一九九四年)
- 2 国連難民高等弁務官の十年(国連難民高等弁務官着任一カ月;難民・国内避難民・経済移民;カンボジア和平の課題 ほか)
- 3 難民援助の仕事を語る(経済大国から人道大国へ;人道援助とPKOの連動;緊急的人道援助はどう行われたか ほか)
- 4 外交演説・講演―平和の構築へ(グローバルな人間の安全保障と日本;アフガニスタンの人々に希望を;アフガニスタン復興支援国際会議 ほか)
- 5 世界へ出ていく若者たちへ(世界へ出ていく若者たちへ)
<メモ>
- 国連難民高等弁務官時代の10年は、主に三つの難題に対処。
①イラク領内でのクルド難民救済
⇒国境の外に出てきた人」だけでなく「国境から出てきていない」人々も救済対象とする
②サラエボ国内避難民への人道援助
⇒きょうの「国内避難民」は明日の「難民」
③ルワンダ難民キャンプへの食糧援助
⇒武装解除のために国連軍派遣を要請
一九九三年を回顧すると、最大の成果はカンボジア難民帰還の完了。大きな失望は、ボスニア和平の停滞。その他、数え切れない小さな成果と些細な失意。難民の数も増
え続けた。それでもわが家では、「寿命」とまで宣告された老犬が、なんとか家族一同と「戌年」の新年を迎える。
- 「UNHCRの存在は人々を追い立てる圧政や隷従が世界に存続していることを意味する」とのこと。
- 外交官一家に生まれた彼女。犬養毅や芳沢謙吉の子孫。
- いろいろの媒体で発表された文章を集めているので、同じ話が繰り返されやや飽きてくるのはご愛嬌。