【概要】
著者(監督):辻邦生
『廻廊にて』あたりと似てる。著者最初期の作品で、執拗な細部の描写とか過去の追憶といった作者性は非常に感じられるのだが、若干退屈なので幾度も寝落ちしたのは秘密だ。
【詳細】
<メモ>
幼少期の原風景や「グスターフ侯のタピスリ」などのイメージを、繰り返ししつこくしつこく挿入し、文字通り夢うつつのトランス状態にして頂いた。
劇中劇っぽい『グスターフ侯年代記』が一番面白かったりする。数々の闘技のハラハラ感とか、くしゃみしちゃうおちゃめな死神とか。
今から憶えば、こうした私の性向のなかには、ある激しい感覚の焼尽といったものと同時に、自分のなかの自我が、何かじっとしていられないほど拡がり、大きくなり、無辺際となって、もうこれ以上我慢できないという、気の遠くなる涯の涯までゆかなければいられないような衝動がたえずつきまとっていたのであろうか。
そういう気持ち、わからんでもない。
幾つかの教会の塔と屋根、ひっそりした暗い破風屋根の並び、清潔な狭い通りと噴水のある広場、その上に拡がる版画にあるような淡い空、中央通りに黄ばんでいる並木、黒衣をまとって歩いてゆく老婆、時おり噴水をかすめて教会の塔へ舞いたってゆく鳩の羽音、そして時を失ったような町から町へ澄んだ鐘の音で時間を告げる市役所の時計台、そうしたものは、いまもなお私の記憶のなかに、昨日のことのように鮮やかだが、しかしあの頃と現在の間ではむろん何ほどの変化も起っていないであろうし、私たちがいた頃と百年前のあの都会とでも、ほとんど変化らしいものが起らなかったに違いない。
私たちがすべて美と呼ぶところのものは、ただこうした物狂いのなかだけに姿を現わすものなのではないだろうか。ちょうど虚空を行方も方向も定めずに落下する星が、ただそうやって落下することで光りかがやくように、物狂いつつ仕事をするというそのことだけで、美は支えられるのではあるまいか。
出ました、著者の大好きな物狂いと美の共犯関係。
しかし一方では私はもう音をたてて散る青桐の幹に耳をつけて、初夏のころのあのほの温かい樹液の流れにかわって、遠くどこかで鳴っている風の音のようなものを、そこに聞くこともなくなっていた。裏庭で飛行とびに熱中したのも、遠い昔のことになったし、蝉の殻を集めたり、池で亀に何をやったことも、もう半ば忘れかけていた。私は樟のざわめきにも、天井を走る蛇の音にも、心を動かすほどに幼くなかったのを、むしろ誇らしく思う年ごろに達していたのだ。
日盛りの道をゆく行商人の麦わら帽子は金色に燃えたつような色で輝き、乾いた砂の道は、浜へ向う道も、駅への道も、透明にゆれるかげろうの中に半ば形を失っていて、もしそのまま道をまっすぐ歩いていったとすると、私たち自身が、そのなかでゆらゆらと透明に燃えあがって、そのゆらめく光の踊りから立ちかえったとしても、もはや元の形のままではいられないのではないか、と思われた。