ミシマの紀行文(死語?)を集めた。
世界一周で「感受性を濫費」した彼は、ギリシャやリオに多くのページを割く。やっぱりギリシャが大好きな模様。
ニューヨークで映画『羅生門』の評価を聞いたり、リオでカピバラ、ジュネーブで海驢のショーを見たりとはしゃぐ三島の姿が面白い。猫、乗馬、汽缶車ごっこの話も地味に面白い。
【詳細】
<旅>
- 旅行者はあらゆる風景を主観を以てしか見ることができない。
- 私の気づかないところで、旅の思い出は、徐々に結晶してゆくらしかった。
- 金を濫費することは僕にはできない。しかし僕は感受性を濫費してくるつもりだ。
- 旅情は旅のさなかにばかりあるのではない。こうして旅の果てたあとにもある。私はコパカバナ海岸の日没を思った。また紐育におけるBとの美しい友情を思った。
- 小説家はしじゅう目を見はっていなければならぬ。しじゅう記憶の袋に感情を採集していなければならぬ。
- シャッタアが切られるのは何分の一秒かだ。その間だけ彼らは未来の追憶のために現在にじっと立止る。次の瞬間からかれらは又歩き出す。即ち人生を生きることに還って来るのである。
- やはり旅には、実景そのものの美しさに加えるに、古典の夢や伝統の幻や生活の思い出などの、観念的な準備が要るのであって、それらの観念のヴェールをとおして見たときに、はじめて風景は完全になる。
<リオ>
リオはふしぎなほど完全な都会である。美しい木蔭も、刈り込まれた庭樹も、古いポルトガル風の建築も、超近代建築も、昼のあいだは黙っていて、日曜の夜だけ美しい五彩の灯火を包んで迸る噴水も、ここのベンチから見える。杖をついて静かな散歩をつづけている老婦人の葡萄いろのスーツの色も、子供たちの日曜の晴着も、一人の子供が追いかけている風船の淡い桃いろまでが、ふしぎなほど完全である。
<ギリシャ>
希臘は私の眷恋の地である。
今、私は希臘にいる。私は無常の幸に酔っている。よしホテルの予約を怠ったためにうす汚ない三流ホテルに放り込まれている身の上であろうとも、インフレーションのために一流の店の食事が七万ドラクマを要しようとも。
私は自分の筆が躍るに任せよう。私は今日ついにアクロポリスを見た! パルテノンを見た! ゼウスの官居を見た! 巴里で経済的窮境に置かれ、希臘行を断念しかかって居たころのこと、それらは私の夢にしばしば現れた。こういう事情に免じて、しばらくの間、私の筆が躍るのを恕してもらいたい。
さきほどから、どういうわけか十二、三の希臘の少年が私につきまとって離れない。(中略)
古代希臘の少年愛の伝習を私に教えるつもりなのであろうか。それなら私はもう知っている。
私には夢みられ、象られ、そうすることによって正確的確に見られ、分析せられ、かくて発見されるにいたった自然の美だけが、感動を与えるのである。思うに、真に人間的な作品とは「見られたる」自然である。
希臘と羅馬のこの二週間、これほど絶え間のない恍惚の連続感が、一生のうちに二度と訪れるであろうかということである。