Javaさんのお部屋(サム・ジーヴァ帝国図書館)

Javaさんのお部屋です。引っ越しました。詳しくは「はじめに」を読んでね。スマホ版は全体像が見えにくいから、PC版と切り替えながら見てね。

嵯峨野明月記 

嵯峨野明月記 (中公文庫)

【概要】
著者(監督):辻邦生

「嵯峨本」製作に心血を注いだ三人の回想録(という設定)。
やはり著者、<無常で空虚な人の生の中で、生きていた証や煌めきを残す>ことが大好きみたい。季節のせいもあり幾たびも寝落ちした。

 

【詳細】
<メモ>

  • 子守女の愛撫 女の家で見た優美な和歌巻切 京の町の雑踏と夕暮れ…そんな数々のノスタルジックなイメージの奔流に溺れる。
  • 本阿弥光悦俵屋宗達、角倉素庵らが振り返る一世一代の文化プロジェクトX

 

「物を見て、その物のもつ清浄な香りにまで達せねばならぬ。物の奥にあるかかる香りに眼識が達してはじめて、わしらは地上のものをこえることができる。絵とは、その清浄な香りをうつすものなのだ。それが天なるものなのだ。この清浄な香りは、地上の財も権勢もついに達することのできぬ境涯である。そこにはわしの心を救いだす何かがある。わしはそれを求め、それを描きだすのだ」

 

唯一の利点といえば、自分の心に妙にしみこんできたものだけが異様な情感の強さをもって蘇ってくることだった。たとえば、おれは、子守女が鬼の面をかぶって青い火花のなかに浮びあがった瞬間の姿などは、なまなましい感じでいまも眼の前に見ることができるし、また、草の茎から出る黄色い汁や、毛虫を踏みつぶしては眺めた緑のどろどろの液や、白い地虫の膨れあがった形などは、心に押した刻印のように鮮明に残っている。そうした物の色や形は、おれのなかに生きていて、ちょうど漁師が海の青や魚鱗の銀色を思いだすと、潮の匂い、櫓の響き、網を曳く声を咄嗟に感じるように、それは、おれに、夏の日の乾いた道や、蟬の鳴きしきる林や、丈高い草のあいだに投げだされていた子守女の白い足などをはっきりと呼びおこすのだ。そうした思い出や情景は、どんな場合にもおれに、強い感動を生み出さずにはいない。

著者お得意の情景パノラマ(; ・`д・´)

 

松永弾正はいまどこにいるだろう。管絃がさざめき、酒盃が灯影に映っていた築山御殿はいまどこにあるのか。足利義昭はいまどこにいるのか。織田信長は、安土の壮麗な青瓦の天守閣は、近江坂本の明智城は……? そうなのだ。すべては繰りかえして押し寄せ、崩れ落ちる波濤の一つにすぎないのだ。それは盛りあがり、高みに達し、そして一挙に崩れるのだ。それが波の宿命であり、また人間たちの宿命なのだ。誰ひとりそれを避けることはできない。こうして住んでいるこの世間が、そのまま一つの波のうねりなのだ。好もうが、好むまいが、その波は大きなうねりとなって動いてゆく。

 

そうなのだ。人間の所業はすべて、この一定の宿命という手箱のなかに入れられているのだ。それは透明な、眼に見えぬ玻璃(ギヤマン)の手箱なので、気がつかないというだけなのだ。人間の所業は、野心も功業も恋も悩みも裏切りも別離ち盛衰も、すべて、この手箱のなかにあり、そのなかで永遠の廻転を繰りかえしているにすぎないのだ。

(中略)

私はその後、左近と謡をうたい、能を舞うとき、まるで自分が浮世を遠く外に出て、浮世が玻璃の手箱に閉じこめられているのを見ているような気がした。そこにあるのは、左近のいう心意気──ただひたすらにその瞬間に打ちこんで生きる気組み──といったものだけだった。それは一種の自在さと静謐さを持った境地だった。それは舞うことによって、何かを加えるというのではなかった。謡をうたうことによって、この世の所業に何かを加えるというのではなかった。それは手箱に入った浮世や所業のうえを舞うことだった。手箱のなかでは、人々は日々の所業を繰りかえしていた。

 

おれにとって、絵を描くとは、ただそこに在るものを写しとることではなかった。そうではなくて、自分のなかに溢れてくる思いを、何でもいい、それにふさわしい形や彩色によって──心のなかにすでに刻印されている形や彩色によって、受けとめてやる
ことだった。

 

忽忙の日々、この世で力をつくす日々が、ただ空無な流れでしかないとしたら、文集綱要を作成することでさえ、空無の業ではないのか。もしそれが空無の業でないなら、同じようにして忽忙の日々も決して空無に終らぬ何かがなければならぬ。わたしにいま必要なことがあるとすれば、この空無に終らせぬ何かを、忽忙の日々のなかに捜すことでなければならぬ。

 

嵯峨本活字書体の魅力 | Ryo SHIMIZU Design