Javaさんのお部屋(サム・ジーヴァ帝国図書館)

Javaさんのお部屋です。引っ越しました。詳しくは「はじめに」を読んでね。スマホ版は全体像が見えにくいから、PC版と切り替えながら見てね。

西行花伝

西行花伝 (新潮文庫)

【概要】
著者(監督):辻邦生

長い。西行含む関係者へのインタビューを重ねて西行の生涯を浮き上がらせていく方式。天皇上皇、貴族と貴族、武士と武士、大領主と小領主、時代の無数の軋みが新たな時代の扉を叩いた。
運命に導かれるままに源平争乱の怒涛の時代を生きた彼は、時空も現実をも超越する歌の力を訴え続けた。運命の理不尽さとそれを俯瞰して客体化する歌の力。同じ主題を何度も塗り重ねていく手法は辻邦生らしい。

 

【詳細】

<あらすじ>

師に直接に結びつく思い出が、最も濃くその姿をとどめているのは当然だ。だが、同時に、師が存在した場所、師が往き来した人々、師と遠くからでもかかわっていた人々について能うかぎり書きつくすことも、私にとって、師の姿をたしかなものにしてゆく道に見えた。ちょうど暗闇に安置された毘盧遮那仏がはじめは暗闇と変らぬ黒一色の存在であったのに、戸の隙間から朝の光が射しこむにつれて、徐々に荘厳な金色の御姿を気高く浮び上らせてくるのと同じである。

西行のドキュメンタリー始まります。

 

<メモ>
芳醇すぎる絢爛豪華な情景のパノラマ、同じテーマを何度も塗り重ねる手法、「流れてゆく瞬間の面に映る久遠の空」などの言葉に見られる情念の不死性、くどいぐらいのルビ打ち…辻邦生だ…。
そういえば西行、清盛とか義朝と同世代人なんやな。

 

 ▶北面の武士~出家

「なるほど歌は風のようなもので、打ってくる太刀を受けることはできない。だが、激しい風が家を吹き倒すように、歌も人の心を吹き倒すことができる。天地の色合いを変え、悲しみを喜びに、喜びを悲しみに変えることができる。 性情を変え、運命をすら変える。歌にはこの世を変成する力があると思うな

 『古今和歌集』のこれやんけ。

力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女のなかをもやはらげ、猛き武士の心をもなぐさむるは、歌なり。

javalousty.hatenablog.com

 

義清は、反対に、野の涯まですべての道が見通せたために、もはやその道を辿ることを放棄した人に似ていました。他の人は、見えないために、無我夢中で進んでゆくのですが、義清は、もはや歩くことをせず、あの道との道を眺め較べたり、そこを歩く意味を考えたりして、自分にふさわしい道を見つけようとしていたのでした。 

 

▶永遠の女(ひと)、女院

私はそれが初めての恋であり、最後の恋であることを知っていた。
それは時を忘れた限りない愛の抱擁であった。この愛の陶酔のなかに、この甘美な惑溺のなかに、人は生の意味をすべて味わいつくすのだ。もう死も何もこの一瞬の中に溶けていた。白い歓喜の光の中で私は幾世もの生を生きぬいていると感じた。私たちが釣殿の勾欄に完れて月を眺めたとき、すでにあたりには夜明け前の蒼白い光が忍びこみ、弓張り月は銀白となって西へ傾きかけていた。

 

春の弓張り月がそろそろ西へ傾こうとし、あたりに何となく夜明けの気配が感じられた。女院は激しく泣かれた。私は女院を何度も抱擁した。髪の匂い、やわらかな肌、ふくよかな胸、物問いたげな黒い瞳を魂のなかに刻みつけようとした。

 

今日ぞ知る 思ひ出でよと ちぎりしは 忘れんとての 情なりけり

 

女院は「義清、きっときっと思い出してくれますね」とくどいように言われた。どうして忘れたりなぞできるものですか──私は眼をつぶり女院の髪の香りを何度も深く吸った。
別れなければならぬ。二度と会ってはならぬ──そのとき怺えに怺えていた悲しみが、突然胸に噴きあがってきた。涙を押える暇もなかった。
私は釣殿から前庭に降り、もう一度、扉口のほうを振り返ったが、釣殿の内側は暗く、そこに女院が立っておられるかどうか、よく見えなかった。
ちょうど釣殿の屋根にかかった月が、薄明るくなる空のなかで、次第に銀色を増して、幻の月のようになっていた。

おもかげの 忘らるまじき 別れかな 名残りを人の 月にとどめて

 

この歌は、その瞬間、詠むという気持もなく生れてきたが、それは歌というより、誓いに似た言葉といってよかった。
外れの来、月は女院の思い出とととさら結びつくようになった。女院を思わないで月を見ることもないし、月を見て女院を思わないことはなかったのだ。

女院さん…。・女院たちとの花合せや為盛こたつの記憶が泣ける。

 

▶永遠なるもの、歌。

私が歌を詠むのは、滅びることのない意味をこの世に与え、この世を滅びから救うことではないか、と思えたのでございます。

 

私が歌の世界を──この言葉が作る世界を、地上のどのように確かな存在より、確かであると信じられるようになったのは、死者の眼で、無我の眼で、浮世を見ることができるようになったからです。
もし御仏の法のように永遠なるものがあるとしますと、それは、あなたや私を通って──死者を決意した人を通って──現われた森羅万象の歓喜です。この大いなる生命は私たちのなかに、歓喜という形で分与られていますから、私たちが歓喜に生きているかぎり、大いなる生命とともに在るということができます。

 

「歌は、浮世の定めなさを支えているのだ。浮世の宿命は窮め難く、誰にも変えることはできない。だからこそ、歌によって、その宿命の意味を明らかにし、宿命から解き放たれ、宿命の上を鷲のように自在に舞うのだ。歌は、宿命によって雁字搦めに縛られた浮世の上を飛ぶ自在な翼だ。浮世を包み、浮世を真空妙有の場に変成し、森羅万象に法爾自然の微笑を与える。それは悟りにとどまって自足するのでもなく、迷いの中で彷徨するのでもない。ただ浮かれゆく押えがたい心なのだ。花に酔う物狂いなのだ。生命が生命であることに酔い痴れる根源の躍動といってもいい。歌はそこから生れる」

 

歌とは、そうした懐かしさ、晴れやかさ、喜び、花への憧れ、恋の切なさ、夕暮の寂寥感(さびしさ)、憂愁(うれい)、幽玄、遠白い静寂、﨟たけた優婉さ、時間の悠久な思いなどを心に喚び起し、それを、現実(ありのまま)以上の、色濃い心の事実として、この身に体験させるものなのだ。人の心の萎えたとき、望みを失った夜、無感動の中で鈍く心が生命力を低下させてゆく日々、人は歌に触れ、その中に色濃く秘められた物の歓喜に、新鮮な山風に吹かれるように、はっとして生命を取り戻すのである。

 

▶旅

旅に出ることの意味が解ったのは、この一種の深い悲しみと愛情が、身の内を貫き、常住、哀傷の風が吹き渡るのを全身で知ったときであった。空ゆく雲も、梢をゆらす風も、決して行きずりのものではなく、すべて私に無縁のものはなかったのだ。旅寝の夜々、枕もとに落ちる月の光は、もはや二度と見られぬ清らかな輝きとなって心に深く染みてくるのである。

 

あはれしる 人見たらばと 思ふかな 旅寝の床に 宿る月影

古今東西の詩歌にみられる「同じ月を見ていた」現象では…?

 

▶「願はくは」…。

「秋実、もう間もなく花が開くな」ある朝、師はほほ笑みを浮べながら言った。「春ごとに桜が咲くと思うだけで、胸が嬉しさで脹らむ。これだけで生は成就しているな。どうか私が死んだら俊成殿に伝えてほしい。桜の花が人々の心を浮き立たせるとき、その歓喜のなかに私がいるとな
私は師西行の手を握り、涙をこらえた。そしてかならず俊成殿に師の言葉を伝えると耳もとで言った。師は眼をつぶり、ほほ笑んでうなずいた。私はふと、長楽寺の庭で初めて会った折の師の柔和な眼を思い浮べた。師はできるかぎりのことを成し終えて、いまここに横たわっている。思い残すこともなく、大いなる眠につこうとしている。そこには暗いものは何一つなかった。ただ桜だけがその美しゆえに、私を孤独のなかに取り残した。桜は気品ある華麗な美しさで咲いた。だが、決して豊かな色ではなく、冷たく、無限に寂しく、儚いのだ。
西行はこうして満足の白く光る夜、花盛りの桜のもとで、七十三年の生涯を終えた。

 

願はくは 花のしたにて 春死なん そのきさらぎの 望月の頃

 

▶山深みシリーズ

山深み 入りて見と見る ものはみな あはれもよほす けしきなるかな