☟これの文字起し。
近代ゴリラ、単身東大教養学部900教室に乗り込む。
「言葉というものはまだここで何ほどかの有効性があるかもしれない、ないかもしれない」
ときおり諧謔を交えながら全共闘の若造たちと討論もとい講義を繰り広げる。噛み合わない言葉や思想が空中戦を繰り広げる中、何とか彼らとの接点や相違点を見つけようと要約や敷衍を行う三島。その姿はもはや教授(思わず全共闘A木村が「先生」と呼んでしまうくらいに)。
下線部はどういうことか。説明せよ。
— Javaさん(サム・ジーヴァ帝) (@Javalousty) 2020年11月22日
(20点)
「彼は決して政治的にアンガージュマンしているのではない。滑稽なのは三島の政治的エピゴーネンであり、三島が政治的エピゴーネンの群れを引き連れようともくろむ時彼はデマゴゴスの地位を獲得する」
ちょっと何言ってるか分からない。
映画を見たときにも感じたのだが、やはり全共闘は空理空論をもてあそんでいるようにしか感じられなかった。観念のお遊びにすぎぬわ。
全共闘Cこと芥の「関係立ったところからそれを逆転するのが革命じゃねえのか、バカヤロー!」もしっかり収録されている。だが、
芥も三島の前では全共闘Cにすぎぬ(๑╹ω╹๑ )
— Javaさん(サム・ジーヴァ帝) (@Javalousty) 2020年11月16日
とりあえず映画観ようか。
【詳細】
<目次>
<メモ>
難解ながらもユーモアを交えた討論をしようと努力する。
全学連のダサコスを「大掃除の手伝い」と揶揄したり、「近代ゴリラ」と揶揄されたことにカウンターしたり、縛られた佐藤栄作という謎のイメージを喚起させたり、昭和天皇に下賜された銀時計の記憶に触れたり、三島という人間の複雑さに気づかされる。
三島の辛口の感想。東大全共闘側の感想は「観念のお遊び」とも称すべきものでイミフであった…。
パネル・ディスカッションの二時間半は、必ずしも世上伝はるやうな、楽な、なごやかな二時間半であったとはいへない。そこには幾つかのいらいらするやうな観念の相互模索があり、また、了解不可能であることを前提にしながら最低限の了解によつてしか言葉の道が開かれないといふことから来る焦燥もあった。その中で私は何とか努力してこの二時間半を充実したものにしたいといふ点では全共闘の諸君と同じ意志を持つてゐたと考へられるし、また、私は論争後半ののどの渇きと一種の神経的な疲労と闘はなければならなかった。途中でのどが渇いて水を注文したときに、水が来るのに二十分もかかった。解放区にはなかなか水が見つからないらしいのである。また、了解不可能な質問と砂漠のやうな観念語の羅列の中でだんだんに募ってくる神経的な疲労は、神経も肉体の一部であるとするならば、その精神の疲労と肉体の疲労とのかかはり合ひが、これを絨毯の上の静かなディスカッションにとどめしめず、ある別な次元の闘ひへ人を連れてゆくといふ経験も与へてくれた。
三島、大人なので認めるところは認める。
全学連の諸君がやったことも、全部は肯定しないけれども、ある日本の大正教養主義からきた知識人の自惚れというものの鼻を叩き割ったという功績は絶対に認めます。
自他の関係性はどのように生まれるか。エロティック/非エロティックとはどういうことか。
たとえば佐藤首相が縛られた状態でここにいるとすると──別にまあエロティックじゃないけれども、(笑)──少なくともそれに暴力を行使するということはおもしろくないというのが、諸君の中に持っている状況だろうと思う。佐藤内閣というものが諸君に対して攻撃的であると諸君は理解する。そしてその攻撃意思を相手の主体的意思とすでに認める。この認めるところに、諸君が他者というものを非エロティック的に、そして主体的に把握しているという関係が生じるのじゃないかと思います。
これは自と他が関係に入っていくただ唯一の方法じゃないかと思う。というのは、エロティシズムというものはある意味で関係じゃないんだ。これは全くのサルトルのいういわゆるワイセツ感でありまして、オブジェから触発される性欲であります。ところが、自と他が関係に入っていくということは、そこにすでに対立があり、戦いがあるということをすなわち意味するのだと考える。それで今の他者との関わり合いということですが、私も他者というものをどうしても欲しくなった。
芥面白すぎんだろ。内ゲバすんな(*'ω'*)
全共闘E:おれは三島をぶん殴る会があると聞いたから来たんだよ。(笑 拍手)
全共闘C:じゃあ殴りなよ。そういうところで言っても、結局単なるあれになっちゃうだろうからね。やりたければやればいいだろう。出てこい。おい。出てこい! ほら! やるんならここでやれよ。殴るなら殴れ、ほら! 殴れよ、ほら!(笑)そんな遠くで言うんじゃないよ。どっち殴る。どっち殴るの?
全共闘E:おめえじゃないよ。(壇上にあがる)
全共闘C:おれでもいいんだよ。共闘E:あのな、一般的にそういうふうに無規定に関係ということを捨象して論を立てたところで観念界のお遊びなんだよ。(拍手)つまり人間が、他者がいるということは事実なんだ。それに対して自分がどのような論を立てるかというのはそれは君の勝手だよ。
共闘F:(会場より)バカヤロー! 関係なんて一番卑猥なんだよ。
共闘C:関係立ったところからそれを逆転するのが革命じゃねえのか、バカヤロー!
国民の意思が中間的な権力構造の媒介物を経ないで国家意思と直結するということを夢見ている。この夢見ていることは一度もかなえられなかったから、戦前のクーデターはみな失敗した。しかしながら、これには天皇という二字が戦前ついていた。それが今はつかないのは、つけてもしようがないと諸君は思っているだけで、これがついて、日本の底辺の民衆にどういう影響を与えるかということを一度でも考えたことがあるか。これは、本当に諸君が心の底から考えれば、くっついてこなければならぬと私は信じている。それがくっついた時には、成功しないものも成功するかもしれないのだ。
私の言う天皇というものは人間天皇と、つまり統治的天皇と、文化的なそういう詩的、神話的天皇とが一つの人間でダブルイメージを持ち、二重構造を持って存在している、その現実の天皇お一人お一人のパーソナリティとは関係がないのだというところが私の核心で、これは天皇機関説を考えられればすぐわかることだと思うのです。
芥ようしゃべるなあ。
全共闘C:それは単なる一種のオナニズムだ、イマージュと自己の。事物に対して何らなすすべがないわけですよ。
三島、もはやカッコいいわ。
全共闘C:だってそうでしょう。あなたはだから日本人であるという限界を越えることはできなくなってしまうということでしょう。
三島:できなくていいのだよ。ほくは日本人であって、日本人として生れ、日本人として死んで、それでいいのだ。その限界を全然ぼくは抜けたいと思わない、ぼく自身。だからあなたから見ればかわいそうだと思うだろうが。
全共闘C:それは思いますよね、ぼくなんか。
三島:しかしやっぱりぽくは日本人である以上日本人以外のものでありたいと思わないのだな。
全共闘C:しかし日本、日本人というのはどこに事物としてあるわけですか。
三島:事物としては外国へ行けばわかりますよ。英語しゃべっていると自分は日本人じゃないような気がするのです。英語が多少うまくなると。そして道歩いていて姿がショーウィンドーに映ると、このとおり胴長でそして鼻もそう高くないし、あ、日本人が歩いている、だれだろうと思うとてめえなんだな。これはどうしても外国へ行くと痛感するね。
つまり天皇を天皇と諸君が一言言ってくれれば、私は喜んで諸君と手をつなぐのに、言ってくれないからいつまでたっても殺す殺すと言ってるだけのことさ。それだけさ。
遺書みたいやな。<完>までの流れが素晴らしい。
三島:私がその言葉を、言霊をとにかくここに残して私は去っていきます。そして私は諸君の熱情は信じます。これだけは信じます。ほかのものは一切信じないとしても、これだけは信じるということはわかっていただきたい。
全共闘G:それで共闘するんですか? しないんですか?
三島:今のは一つの詭弁的な誘いでありまして、非常に誘惑的になったけれども、私は共闘を拒否いたします。(笑 拍手)
<完>