Javaさんのお部屋(サム・ジーヴァ帝国図書館)

Javaさんのお部屋です。引っ越しました。詳しくは「はじめに」を読んでね。スマホ版は全体像が見えにくいから、PC版と切り替えながら見てね。

動物裁判 西欧中世・正義のコスモス

動物裁判 (講談社現代新書)

【概要】
著者(監督):池上俊一

要約難しい。子供を殺戮したブタさんが裁判所で罪を宣告されるという、非常にシュールな光景から始まる。科学的・キリスト教的世界観の浸透、慣習法から制定法への法革命、都市文化の流入、いろいろな背景があって奇妙な光景が現出した。

でも、当時はそれなりの合理性があったのかもね。

 

【詳細】
<目次>

  • プロローグ
  • 第1部 動物裁判とはなにか(被告席の動物たち;処刑される家畜たち;破門される昆虫と小動物;なぜ動物を裁くのか)
  • 第2部 動物裁判の風景―ヨーロッパ中世の自然と文化(自然の征服;異教とキリスト教の葛藤;自然にたいする感受性の変容;自然の観念とイメージ;合理主義の中世;日本に動物裁判はありえたか)
  • エピローグ

 

<メモ>

獣姦されたロバ、サーカスの人気者だったウマ、殺人が行われた、合図に使われた鐘楼の、それらが火あぶりにされたり破門されたりするという、奇妙奇天烈摩訶不思議奇想天外四捨五入出前迅速落書無用な事件が中世のある時期に確かに存在した。

 

今日なら事故・自然災害・家畜所有者の不注意としてかたづけられる出来事が、動物の「犯罪」を構成し、正規の司法官をそろえた裁判所で、人間にたいするのとまったく同一の訴訟手続を細大洩らさずふんで、厳正な審理がなされ、しかるのちに判決がくだされ、刑が執行されたというのである。いったい、中世の人々は、どうして動物をあたかも人間とおなじように裁いたのであろうか。ファルスでもパロディーでもなければ、なにかそれ相応の理由があるはずである。

 

歴史の神髄は、しばしば一見ささいな、とるにたりない、しかし不思議でちょっと気になる現象のなかにこそあると、考えるからである。
「鳥の視点」と「虫の視点」をあわせもちつつ、その秘密をよみ解くことは、はじめから感情の微細なひだや情念のうねりを排除したところに成立した実証主義の近代歴史学の方法よりも、ずっとなまなましく過去の魂を呼びもどすことができる、と信じている。

 

動物裁判は、人間の世界を律する法・訴訟手続を自然に適用して、自然を人間の理性や文化の条理に無理矢理おしこむ装置であったのだから。

 

破門宣告のほうは、民衆の「迷信」と歩調をあわせて、アニミズムの諸霊をキリスト教共同体にいったんとりこんだうえで、その後、そこから追放するやり方であった、といえる。

 

★まとめ!

まとめてみよう。
初期中世においては、自然に親しんだり、自然を科学したり、ましてや、自然の景観をおのれの心の鏡とするような感受性は、ほとんどそだたなかった。 洪水や旱魃、厳寒酷暑、をもって人間を苦しめる自然は、畏怖と嫌悪の対象として接近をこばむか、あるいはそのようによそよそしく、ちかづきがたい存在であった。

ところが12世紀から15世紀にかけて、自然のリアリスティックな見方をささえる感受性が徐々につちかわれた。これは、現実生活のうえで自然の威力に果敢に挑戦し、広大な自然の海のなかに文化の土壌をひろげてゆく努力と、そして信仰の面では、自然宗教キリスト教支配下におさめる努力とかかわっている。その過程で、絵画や文学作品においても、自然の景観がますます親しいものとして綿密に観察されるとともに、かつてのように、象徴として、よかれあしかれ手のとどかない高嶺の花ではもはやなく、愛玩され感情移入される景観にかわってゆく。かくしてそれは、人間世界の一部となる。
12世紀から15・16世紀という時代は、自然の景観が、いや自然そのものが、象徴のくびきからはなたれたが、しかしまだ自然科学の規矩をあてがわれる前の段階にあり、都市や宮廷の紡ぎだす物語の一部としてとりこまれ従属する一種の過渡期にあたっていた。自然は、いわば漸次、人間の主観的間尺に適合させられてゆく、そうした時代であった。

そのとき、自然となれ親しみ、そこに憧憬・勇気・歓喜・恐怖・困苦といった感情を投する感受性が生まれると同時に、その裏面として、大義名分はどうあれ、自然にかってな思いいれをし、なぶりものにする、自然との不幸な関係が生まれたのではあるまいか。

 

動物裁判は、動物に人間の法を適用する。これを平気で実践しみまもることのできる感受性は、まさしく右にみてきたような、その時代固有の感受性以外のものではありえないであろう。それ以前の、動物や自然の霊力を真剣に畏怖していた時代には、それはだれにもうけいれられないだろう。また、それ以後の、風景を人間社会の論理から解きはなち、風景をそれにむかいあう個人が風景のためにのみ愛好・描写する時代、そして科学的客観性で自然をみて解釈しつくそうという時代にも、それは存続しえないのである。

 

前近代の非合理主義の残りかすなどではなく、むしろ正反対に、動物裁判は、当時あらゆる領域を席巻した「合理化運動」の落とし子なのではないか、そんな予感がわきおこる。
それだからこそ、動物裁判の根源をさぐるのに法・裁判手続やそれが通常適用される人間の社会関係のみをみていてはダメなのではないか。動物がその住人であるところの自然世界とこの合理化運動、そして人間社会との関係をさぐらなければならないのではないか。そう思われた。