Javaさんのお部屋・改

Javaさんのお部屋です。引っ越しました。詳しくは「はじめに」を読んでね。スマホ版は全体像が見えにくいから、PC版と切り替えながら見てね。

南無阿弥陀仏

著者:柳宗悦
評価:A

【概要】
浄土系三宗の発展史(行⇒信⇒念仏)を、宗祖の言葉を辿りながらあざやかに解説していく。とりわけ一遍の功績を称揚する。透徹した大乗仏教の論理とその平易な解説、そして衆生に向けられた温かなまなざしを感じる。

【詳細】
「宗門の教えを欠くということは、私にとって引け目とも思われるが、同時に宗学に囚われぬ強みもあろう」
「枝葉な問題に精細になると、とかく本質的なことが置き去りにされる」
「時代は移る。既に通じ難い術後の数々が現われると、読者に早くも倦怠の情を起させるであろう」
「宗門の特殊な表現にかじりついていては、仏教を現代のもの、未来のものとすることは出来ぬ」
「いつだとて易しさは深さに支えられていなければならない」

というわけで、透徹した大乗仏教の論理の平易な解説がはじまる。
まずは、浄土宗の三経典『大阿弥陀経』(四十八の大願)『観無量寿経』(五逆十悪)『阿弥陀経』(名号執持)を解説。

そこに物語られている沙門法蔵阿弥陀如来の進化前)、私たちは一切の人間の結晶された姿を見ることができる。沙門として彼は求道そのものに徹した。どこに道が得られるのか。生死の二、自他の二を超えるその世界を目指すのである。(中略)
衆生を救おうというその誓い(大悲)に彼は命を賭けた。(中略)
法蔵は架空の人でもなく、遠い過去の人でもない。この自己のこの現在のこの場所の私を離れてはない。その私が誰であろうと。その現在がどの時間であろうと。その場所がどこの方処であろうと。

三部経に綴られた阿弥陀仏の物語は、何も偽りを述べているのではない。我々の悩みと苦しみと、祈りと求めと、慰めと救いと、そうして安心と成仏と、そうして輝かしい浄い国土の壮麗さとの最も如実な叙述だといってよい。

その大悲の動くところ、衆生の済度が果されぬ瞬間はない。それ故もし衆生を浄土に生れしめずば正覚を取らぬといった法蔵比丘の大願と、願成就の瞬間とは同時である。別時であるわけがない。既に十劫の昔に、仏の成正覚のその刹那に、我々の済度が結実されているのである。

浄土系三宗の発展史(行⇒信⇒念仏)を、宗祖の言葉を辿りながらあざやかに解説していく。とりわけ一遍の功績を称揚する。
豊富な引用を交え、仏法とりわけ念仏門の本質を種々の表現で理解させようとする。ひたむき。

<三祖師>
浄土宗、真宗時宗が各々違っているということに意義があるというより、違ったままに一つだということに大きな意味を見たいのである。あるいは一つのものが三面に自らを現したといってもよい。(忠略)
三つの宗派は異る存在ではあるが、固く組みあって日本念仏門の一大伽藍をなしていることに壮観があるのである。

法然上人はいう、仏を念ぜよ、さらば仏は必ず人を念じ給うと。
親鸞聖人は説く、たとえ人が仏を念ぜずとも、仏が人を念じ給わぬ時はないと。
だが一遍上人はいう、仏も人もなく、念仏自らの念仏であると。

法然上人は人の側を見つめ、親鸞上人は仏の側を見つめ、一遍上人は人も仏も未だ分れぬ場を見つめているのである。各々に深い意味を欠かない。しかしこの推移にこそ六字の思想のおのずからな発展を見ねばならぬ。

法然上人はその往生を主に臨終の刹那に見、親鸞上人は平生の一念に見、一遍上人は六字に結ばれる平生即臨終にそれを見つめた。

法然上人は教える。口に名号を称えよ。なんじの往生は契われているとと。
親鸞聖人はいう。本願を信ぜよ。その時往生は決定されるのであると。
一遍上人は更に説く。既に南無阿弥陀仏に往生が決定されているのである。人の如何に左右されるものではないと。

<一遍>
称名こそは凡夫と弥陀とを繋ぐ結びの緒である。それ故にこそ「称名を、もはらにし、もはらにせよ」と説きすすめるのである。詮ずるに念仏の一宗が、いつも専修念仏を説く意味がここに読める。

かくして彼の一生は、僧を棄て、寺を棄て、俗を棄て、衣を棄て、食を棄て、身を棄て、心を棄て、いっさいを独一なる名号に捧げつくした。

おまけとして、口絵の略註、心偈が付く。民藝の発見者らしく、凡夫へ向けられた温かなまなざしとひたむきさを感じた。

とりわけ世が暗く沈む時、真理の旗を掲げる者に抵抗は強い。(中略)
だが、ためらわず前進しようではないか。決して真理は孤独ではなのである。一人は決して一人だけではない。いつか二人になり三人になろう。