Javaさんのお部屋(サム・ジーヴァ帝国図書館)

Javaさんのお部屋です。引っ越しました。詳しくは「はじめに」を読んでね。スマホ版は全体像が見えにくいから、PC版と切り替えながら見てね。

華厳の研究

華厳の研究 (角川ソフィア文庫)

【概要】
著者(監督):鈴木大拙

奈良の大仏でおなじみ華厳経の思想について、著者の得意分野の禅をからめて論考する。曰く「それは単なる大乗仏教哲学ということでなしに、世界思想史上の一期を画するものとして、『華厳』を見なければならぬのである」。
融通無碍、「相即相入」にして光に満ちた超次元的な時空間のイメージは、人間に許された想像力の極限といった感がある。東大寺行こう。

 

【詳細】
<目次>

 

<メモ>

  • 「禅匠に及ぼせる華厳経学の影響」について研究する。禅の不立文字性と体系化・組織化の矛盾を解消するために、華厳経の世界観が活用されたということらしい。禅匠の系譜や禅問答も耳タコなぐらい聞かされる。そして「華厳」は花飾り・花環の意。
  • 華厳経の理解には「(相則相入といった)根本的直覚を把握すること」が重要。時空間の桎梏を離れ、現在過去未来の全ての事象と全宇宙の理を知り、光輝に満ちた天上の銀河に冒険だ! とはいえいきなり「一切」を知覚したら頭が負荷に耐え切れなくてパンクしそう。

華厳経』がその他の経典と共に禅経験の哲学的解釈のために組織的に利用せられるようになったことは、こうなってみると、なんら不思議なことではない。中でも華厳経』は、その豊かな美しい譬喩形象の故に、シナ文学の全領域を見わたしてもそこに比ぶべきものを見出し得ないほどのものであるが、これが時期に叶った恰好な副木となって禅に附接せられて、禅の健全円満な発達に寄与したのであった。
もし禅が万事不立文字で片付くという観念に終始していたとすればおそらくシナの仏教生活の歴史の上で禅のなし遂げたところはさほど大きなものとはなり得なかったであろう。

 

壮大なあの直観──その広さにおいて、その深さにおいて、またその透徹さにおいて、壮大なあの直観──は、『華厳経』の本質を形造っている壮大なあの直観──は、全世界の人々の霊的生活のためにインド心性が打ち立てた巍然たる紀念碑である。かくして禅は必然的に『華厳経』の豪華なる王宮的建築の中にもまたその住処を打ち立てる。すなわち禅は『華厳経』の無数の荘厳の一つとなる。他の見地からいえば、禅は発展して法界をかざるところの一切の荘厳となるのである。

 

(法蔵『妄尽還源観』における『華厳経』の解釈)
一心がある。それは究極の実在であり、本来清浄なるもので、光耀あまねく一切を照すものである。この一心が二様なはたらきにおいて動く、すなわちこの一心のはたらきによって個物から成り立つ多の世界の存在が可能となる、またこの一心のはたらきによって、自在で、光耀的で、波羅蜜の徳を成就するすべての行が可能となる。この二つのはたらきは、存在的なはたらきと道徳的なはたらきといってもよいが、そこにまた三つの普遍的性格を見出すことができる。存在的にいうと、一一の個物、仏教では「微塵」(amuraja)は、その中に全法界を容れている。第二に創造的見地からみると、一一の微塵があらゆる種類の徳を生みだす、従って一一の個物によって全宇宙の秘密が把握される。第三に、一一の微塵の中に空の原理が見られる。


法蔵のいうところによると、『華厳経』を理解するためには次のような六観が必要である。

(一)万法が帰するところの寂静の一心を観ずる、

(二)一心からあらわれるところの個別の世界の不可思議を観ずる、

(三)万法が無礙に相即相入するのを観ずる、

(四)如幻的な存在がそれぞれの影をそこに投ずるところの他には何ものも存在しないのを観ずる、

(五)即の鏡中には万象の影像が映じてしかも一一の影が他を妨げるようなことのないのを観ずる、

(六)全宇宙にわたって完全な主伴関係が相互的に存在していて何か一つのものを引きあげると、他のすべてのものがそれについて上って来るのを観ずる、

ことである。

 

一切の諸菩薩は、一切の有情が如幻であり、一切の仏陀が如影であり、一切の存在はその起伏と共にすべてみな如夢であり、一切の業報は鏡中の影の如く、一切のものの生起は陽炎の如く、一切世界は単なる変化(nirmita)にすぎぬと知る。
更にまた菩薩は、仏の十力・智慧・威厳・信を具備して能く獅子吼し、無尽の弁才の大海に深く入り、一切衆生のために説法方便の智慧を成就してよく目らの行為の主となるが故に、無礙なること虚空を行くが如くに世界を遊歩し、 一切菩薩の神通に達し、その勇猛精進はよく魔軍を粉砕し、その智慧の力はよく三世を徹見し、一切法は虚空の如しと知って、無抵抗を行じ、取著するところなく、他の有情のためにはたらいて疲倦することを知らぬが、かのを一切智の立場から見れば、よって来るところはさらにないと了達し、客観界を認めはするが、その存在は不可得であることを知り、清浄不壊なる智慧によって一切の世界に入り、一切の世界において至極の無礙をもって身を示現し、一切の世界に生れてあらゆる形相を取り、微細の境を変じて広大の利となし、広大の利を微細の境となし、一念のうちによく一切諸仏を示現し、一切諸仏の加被をうけ、一瞬の中に全宇宙を見てしかも迷うところ全くなく、一念の中に一切世界に往詣することができるのである。

 

a1,a2...の数列の例えが大拙らしい。一つ一つの玉が己自身では輝いておらず~云々の話は数学お兄さん・森田真生の講演でも聞いたことあるぞ( ˘ω˘ )

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