Javaさんのお部屋(サム・ジーヴァ帝国図書館)

Javaさんのお部屋です。引っ越しました。詳しくは「はじめに」を読んでね。スマホ版は全体像が見えにくいから、PC版と切り替えながら見てね。

私の嫌いな10の言葉

私の嫌いな10の言葉(新潮文庫)

【概要】
著者(監督):中島義道

なかなか刺戟的な書であった。「自分は正しいという大前提で私の耳に流し込むお説教」「いつも自分の言葉に二重の意味をもたせたまま自己防衛の逃げ道を作っておいて、一方的に相手にこの二重性に従うことを要求し、しかもそれを明言せずにいて、従わない相手を軽蔑する」などの、現代日本に跳梁跋扈するハイコンテクストで陰湿な部分を罵倒し殴打し言葉で刺す。われわれの常識や当たり前を批判的に点検する哲学的な「批判」精神の伝道者であるかもしれないし、ただのヤバいオッさんなだけかもしれない(; ・`д・´)

ただ、たまにいる偽善的で心根の汚い人間やその言動をバッサバッサと斬り捨てていく筆運び。そこに胸のすく思いがしたことは疑いえない事実だ。パワハラによく見られるが、ある種の人間の言動の裏には硬直した傲慢な正しさがある。まずは、その他人を舐め腐った薄汚くドブのような臭気を発する、度し難い馬鹿さ加減に満ちた最低最悪奇妙奇天烈摩訶不思議なクソ心理構造に気づくことが重要。

本書の書かれた2000年頃より多少は風通しの良い社会になったかもしれないが、まだまだこれから。対立から逃げず事態を打開すること+意見と発言者を区別すること等は今後も重要な課題であり続けるだろう。

 

【詳細】
<目次>

  1. 相手の気持ちを考えろよ!
  2. ひとりで生きてるんじゃないからな!
  3. おまえのためを思って言ってるんだぞ!
  4. もっと素直になれよ!
  5. 一度頭を下げれば済むことじゃないか!
  6. 謝れよ!
  7. 弁解するな!
  8. 胸に手をあててよく考えてみろ!
  9. みんなが厭な気分になるじゃないか!
  10. 自分の好きなことがかならず何かあるはずだ!


<メモ>

こうした私の体験は、その後の人生においてとても役立ったように思います。つまり、私は青年期に突入しても「なぜ、こんな不 都合なことが!」と青筋立てて怒鳴ることはなかった。人生とは不都合の固まりであることを、私は七、八歳のころから身に染みて知っておりましたので。
また、世の中のありとあらゆるいわゆる「悪」に憤慨することがなかった。とくに
自分が正しいという前提で相手を責めることがなかった。なぜなら、私を少年時代からえんえんと苦しめてきたものは、すべて自分は正しいという大前提で私の耳に流し込むお説教だけだったから。みんなと一緒に昼休みに遊ぶこと、みんなと一緒に給食を食べること、みんなと一緒に遠足に行き、みんなと一緒にトイレに行くことは正しいことであり、それを強要することは正しいことであるからこそ、そこに凄まじい暴力が発生する。しかも、誰も(先生も仲間たちも)それに気づかない。ああ、これは残酷なことだなあ、と八歳の私は呻いていました。

 

こういう人(サムジ註:「相手の気持ちを考えろよ」とのたまう人)は、頭(論理的思考力)もセンス(感性的思考力)も悪く、そのうえ怠惰で傲慢であって、しかも恐ろしいことにこうしたことをたとえ指摘されても、「善良である」という最大の美徳を具えているのだからそれでいいと居直っている。それほどまでも自己批判精神が欠如しているのです。

 

ぼんやりした言葉遣いの裏を読むことがアホらしくて、バカくさくて、薄汚くて、虚しくて、屈辱的で、厭で厭でたまらない。私はこうした傾向が(たぶん病的に)強い人間なので、言葉の文字通りを信じない人、言葉の裏を必死に読もうという態度の人を見つけたら、ただではおかない。ありとあらゆる侮蔑語をふんだんに使って、相手の人格を破壊するほどに罵倒します。

 

有名な「京のぶぶづけ」(「ぶぶづけ[お茶漬け]いかがですか?」と聞かれたら「帰ってくれ」という意味)という言葉を信じない文化の到達点です。私はこれこそ高級でも何でもなく、むしろ野蛮な文化だと思います。なぜなら、いつも自分の言葉に二重の意味をもたせたまま自己防衛の逃げ道を作っておいて、一方的に相手にこの二重性に従うことを要求し、しかもそれを明言せずにいて、従わない相手を軽蔑するのですから。傲慢で、狡く、野蛮な文化です。

 

「ただただ、おまえが気に入らないんだ」と言えばいいものを、毒素を何重にもオブラートで包み、あくまでも善人を貫き通そうとする。「おれもほんとうはこんなこと言いたくないんだ。おれも辛いんだ。だがな、おまえから曽まれてもおまえのためを思って、これだけは言っておきたいんだ」とじゅんじゅんと教え諭す。
こうして、あとから私や第三者から非難されたら、自分はすべて善意からしたのだという巧妙な逃げ道を作っておく。その自己防衛の巧みさ、つまりその根性のうす汚さが厭なのです。

 

「中島さん、子供をもってから言ってもらいたい」☜
ここには「子供をもたないあなたに何がわかる」という傲慢な響きと、その裏返しとしての「子供をもったらわかるにちがいない」という善良な期待があります。

(中略)
しかし、だからこそ、私はあえて踏ん張って、こういう論法で人を斬ることの暴力を指摘したい。子供をもったらははあんとわかるかもしれないし、やはりわからないかもしれないし、自分と別わかり方をするかもしれないし、子供をもたなくてもわかるかもしれないし、やはりわからないかもしれない……という柔軟な観点をもつ必要を強調したいのです。

 

「社長ってヤな奴ですね」と言うのでなければホンネではない。女房に隠れて女の子を追いかけ回していることがホンネでなければならない。人を蹴落として出世したいのでなければホンネではない。

 

おいそれとは謝らない文化の数パーセントでも取り込んで、もう少し対立がよく見える社会、もう少し風通しのよい社会が実現すればいいなあと思うだけです。

 

わが国に恐ろしく多いのですが、まったくノーマルな日常生活において対立を避けようとする主要な動機から、何ごとも正面から応じないで黙殺してしまうというやり方が跋扈している。ですから、この国では、ある状況において予想もできないような提案をしたり意見を言うとひどく厭がられる。すべてが自然現象のようにスムーズに運ぶことを何よりも尊重しますので、その自然な流れをがくっと中断させるような言葉遣いは、それがいかに正しいものであろうとも、基本的に嫌悪されるのです。

 

そんな場合、事態を打開するには、双方が正確に言葉を表明し合い、相手も傷つけ自分も傷ついて、つまり双方たっぷり血を流して解決に至るしかない。ところが、「声に出さないで注意する」ことを称賛する美学は言葉の対立自体を嫌悪し、それを全身全霊で封じ込めようとする。そのあげく、何ごとも相手を傷つけないように細心の注意を払って解決しようというすばらしい文明国人の智恵が、相手からも自分からも言葉を奪い、言葉の力を削ぎ落とし、さらには言葉を正確に使って意思表示する人びとを毛嫌いし、彼らをパッと社会から排除するという凄まじい暴力を引き起こすのです。

 

先生に一つだけ頼みたいことがある。それは、「きれいごと」を語ることをやるということ。例えば、三年前神戸で起こった少年Aによる首切り殺人事件はたいそうな反響を呼びましたが、その学校の校長の言葉が虫酸が走るほど厭だった。マイクを向けられて「みんなに生命の尊さを語りました」という返事です。生徒が首を切られて殺されたのに「生命の尊さ」もないもんだ。こういう抽象的で安全無害なきれいごとばかり語るから、生徒の耳を素どおりし心に届かないのです。

 

身近にはいてほしくないが、対立から逃げず事態を打開することに対する狂気に似た信念が彼を彼たらしめているのだろう(; ・`д・´)

でも、某銀行の自転車置き場のカセットテープ抜き取りや、さる喫茶店での苦情はけっこう社会不適格者度が高いエピソードではあるな…。

なぜか、私のこのごろの「趣味」なのですが、自分をきわめて不愉快にもってゆくものを探り出して、自分がどれほど不愉快になるか実験してみようという強烈な欲望に支配されるのです。これって何なのでしょうね。

 

javalousty.hatenablog.com

 

〇おまけ

枕草子 第五百千万億那由他阿僧祇