Javaさんのお部屋(サム・ジーヴァ帝国図書館)

Javaさんのお部屋です。引っ越しました。詳しくは「はじめに」を読んでね。スマホ版は全体像が見えにくいから、PC版と切り替えながら見てね。

モンゴル帝国の興亡

モンゴル帝国の興亡<上> (講談社現代新書)

【概要】
著者(監督):杉山正明

(上)表題の通り、ユーラシア史上最大の大帝国となったモンゴル帝国の興亡を辿る。チンギス⇒オゴデイ⇒グユク⇒モンケ⇒(アリク・ブケ)⇒クビライまで。上巻では東西に急拡大する巨大帝国の勃興を描く。多国籍政府かつ多国籍軍を組織する能力と騎馬民族の軍事力・兵站力。ここには当時の世界最高の頭脳が結集していたに違いない。

(下)クビライ政権をピークに帝国の趨勢は衰亡に向かう。陸と海がつながる兆候が見えたのも束の間、グローバリゼーションは停滞する。各ウルスの残滓が清、ロシア、インド、イランの各帝国に繋がっているあたりに、歴史の躍動感や連続性を感じられる。


【詳細】
<目次>

🐎上巻🐎
序.歴史を語るものたち
Ⅰ.時代の被造物モンゴル
 1.モンゴル・ウルスの誕生
 2.世界征服への道
 3.帝国の動揺
 4.ヨーロッパとの出会い
Ⅱ.世界史の変貌
 1.クビライの奪権
 2.フレグの旋回
 3.多極化時代の幕明け

 

🐎下巻🐎
Ⅲ.陸と海の巨大帝国
 1.世界の改造者
 2.草原のゆらめき
 3.大河の国へ
 4.海上発展の道程
Ⅳ.ゆるやかな大統合
 1.内陸争乱から東西和合へ
 2.帝国の経済システム
Ⅴ.解体とその後
 1.天暦の内乱
 2.沈みゆくモンゴル世界
 3.モンゴルの裔たち


<メモ>

 

つまり、チンギスの新王国は、南面して最も外側に左右三個ずつの一族王家、その内側にまた左右の千戸群、そしてすべての中央に、チンギス自身と四つの「オルド」を守る「ケシク」という構造となった。鶴が左右の翼を大きく広げたような構えが、新興国家モンゴルの形であった。これが、こののちのモンゴル・ウルスのすべての原型となった。

 

モンゴルには、特に決まった相続制はなかった。「家督」の継承は実力主義、「家産」の相続は末子が有利、というのが大方の傾向だった。 

 

モンゴル遠征軍の主力は、少年部隊であった。モンゴル高原を出発する時は、10代の、それも前半の少年であることが多かった。彼らは長い遠征の過程で、さまざまな体験をし、実地の訓練を通して、次第にすぐれた大人の戦士になっていった。モンゴル遠征軍の各部隊の指揮官は、手練の古強者があてられたが、兵員そのものは年若く敏捷な者たちから成っていたので、軍事行動も迅速であった。素直で、指揮官の言うこともよく聞いた。たいていまだ妻子もいず、身軽な分だけ遠征先にも馴染みやすかった。壮年兵や老年兵よりも、困苦欠乏にもよく耐え、ひたすら戦闘の勝利へ邁進した。こうした少年兵にとって、遠征の出発は人生への旅立ちでもあった。

 

〇クビライシリーズ

チンギス・カンの国家草創より、すでに60年。モンゴル帝国は再編のときを迎えていた。失敗すれば、巨大なまとまりは失われる。今や、強引に征服・拡大を押し進める時代から否応なく、統治へ、さらには経営の方へと、大きくスタンスを移さざるをえない時代となっていた。それが、クビライに与えられた「時代の条件」であった。帝国の命運は、クビライの手腕にかかっていた。

 

クビライの新国家は、政治・行政・経済は言うまでもなく、他ならぬ軍事までもが多種族混合(ハイブリッド)の状態にあった。国家組織も軍事組織も、人種(レイス)や民族(ネイション)の枠を乗り越えてしまった(もっとも、「レイス」の方は別として、「ネイション」というものがアプリオリにあるとする発想・概念そのものが、近代西欧が生み出した虚妄なのだが)。しかも、政権側がそれを意図してつくりだしたのである。

 

クビライは戦争から、個の力や、偶然の要素を排除しようとした。単に戦闘だけでなく、作戦立案から編成・補給のすべてにわたって、戦争を「総合事業」化した。李壇戦の経験は、ここに見事な結果として立ち現れてきた。これ以後、クビライの戦争はシステムとなった。物量と計画と統制で、常に勝つべくして勝った。

 

ここに、唐末・五代・北宋以来、南宋の一五〇年を経て、今やはっきりとした姿をとって成長しつつあった江南という海洋志向型の「生産社会」は、大元ウルスという史上稀に見るシステム建設への意欲に満ちた国家主導型の「軍事政権」とリンクした。それは、人類史上かつてない規模で内陸と海洋が結びついた、「海の時代」の幕明きであった。時代は、さらに激しく変わろうとしていた。

 

マクロな目で見ると、モンゴル帝国は当初のシンプルな軍事大国から、クビライ以後、大きく経済重視にシフトした。通商立国の姿勢を色濃く織り込んだ、超広域の軍事・通商国家へ移り変わった。クビライ国家の経済政策は、のちの西欧で実現する重商主義に、きわめて近い体質をもっていた。しかも、一面で国家主導でありながら、あくまで自由経済を基本に据え続けたことも注意される。

 

おつかれさまです。

このいわゆるイスタンブル本とそれに準じる他の写本群との照合、20ヵ国語を優に超える厖大・多様なモンゴル時代関連の多言語文献との絶えざる突き合わせ、そして当然の反復検証――。ともかく、とてつもなく時間のかかる作業となってしまった。

 

 

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