【概要】
著者(監督):酒井敏
「京大変人講座」でおなじみ総人の教授が静かに怒る。
「選択と集中」の科学技術政策で凋落する日本の科学力。
カオス理論で示されたように将来のことは予測不能。現生の種は試行錯誤の末に「結果オーライ」で生き残っただけにすぎない。それはいわば「発散と選択」。多くの無駄の上に少数の成功があるのが進化の基本法則。
それなのに世はまさに決定論的な世界観に覆われつつある。その最たるものが大学教養部の解体や「選択と集中」を掲げる科学政策。近視眼的に効率を求める「選択と集中」を基礎研究や学術的な分野に適用してはならない。最後の牙城と思われていた京大もその例外ではない。
カオスやフラクタル、自己組織化やパーコレーションなどに関する話を挟みつつ、決定論と非決定論のハイブリッド、アホとマジメの狭間で生きるよう社会に要請する。
終章のメッセージがふるっている。
いま政財界で活躍されておられる方々は、教養部がある時代に大学を卒業されたことでしょう。ところが「選択と集中」に邁進されるみなさんの言動からは、微塵も教養が感じられません。
【詳細】
<目次>
- 序章 京大の危機は学術の危機
- 第一章 予測不能な「カオス」とは何か
- 第二章 カオスな世界の生存戦略と自然界の秩序
- 第三章 イノベーションは「ガラクタ」から生まれる
- 第四章 間違いだらけの大学改革
- 終章 アホとマジメの共同作業
<メモ>
毎月、満月の晩に友人と徹夜で数十キロ歩いてみたり、一輪車で大学に通ってみたりとアホをやれていた時代の著者。「ちょっとやってみたいな」を常識にとらわれず実行するのが、本当の意味の「アホなことをせい」。
著者の専門のカオス理論は「あらゆる生物進化は「結果オーライ」にすぎ」ないことをまざまざと見せつけ、人間の理性の傲慢さと限界を示した。
ところが、世界(日本)はいまや目的や用途がフワッとした予算やムダを見逃さない。また「コンプライアンス」の名の下に些細な瑕疵も見逃さずに厳しく対応する社会的風潮が強まっている。世界から自由度や多様性が失われると外乱に弱くなる。その結果が閉塞的な日本の経済指標と学術的地盤沈下だ。
とりあえず少額でもいいから自由に使える金を出せ。わかりにくいものや人・未来に投資せよ。寛容さと希望を抱かせよ。PDCAよりDDDD(基礎研究や学術寄りの分野については)。フラクタル日除けもクソマジメにやっていては生まれなかったろう。
酸素という毒ガス(当時)を撒き散らすシアノバクテリアに「このドアホ!」と叫ぶその他生物の図は面白かった。
「選択と集中」の発想も、その根底には因果律に基づく決定論的な世界観があります。未来が予測できないのでは、「これから確実に売れるもの」や「短期間で成果の上がる研究」などを選んで集中的に投資することなどできません。現状を分析すれば次の動向がわかると信じているから、「約束された成功」に向かって選択と集中を行うのが合理的なやり方だと考えるのでしょう。決定論的な未来予測が可能であることを前提にしている点で、これは科学的思考に基づく近代合理主義を象徴するような物の考え方だと思います。
が、「ロジスティック写像」を発見したロバート・メイ曰く、
「すべてのパラメータを正確に決定できるような単純なモデルにおいてすら、長期的な予測が不可能」
では、想定外の変化に備えるにはどうすればいいのか。早い話、生物の真似をしてみればよいのです。それは「選択と集中」ではなく、いわば「発散と選択」です。未来のことはわからないのだと割りきって、効率や短期的な合理性をあまり気にせず、いろいろなことをやってみる。そのなかで、うまくいきそうなものを、「ゆるく」選択する。あまりきつく選択して「集中」してしまうと、次の選択肢がなくなってしまいます。それが「生物的」なスタイルにほかなりません。
★アホとマジメの狭間で
ある意味で、人間はカオスの世界を生きる「生き物」と、ルールに則り行動する「ロボット」の中間に位置するハイブリッド的な存在なのだと思います。だとすれば、「生物的」なスケールフリー構造と「ロボット的」な樹形図構造を必要に応じて使い分けなければいけません。
人間はカオスな自然界のなかから、決定論的な法則性を見つけ、近代文明を築いてきました。それが人間と野生生物の決定的な違いです。しかし、自然界にはその決定論的法則を無効にして、カオスを生み出すメカニズムが存在する。そのカオスのなかには決定論的秩序とは別の秩序が存在し、それによって絶滅を防ぐ仕組みになっていたのです。これは、自然界のなかで生物として生きるための掟にほかなりません。
★メッセージ
政治家、経営者の方へ。
私はこれまで、世の中の相容れない矛盾をうまく丸めて、紛争をおさめ世の中をまとめるのが政治家の役割だと思っていました。また、経営者は相容れない価値観同士を無色透明な「貨幣」という価値でつなぎ、それぞれの価値観の落差を利用して経済を回す人だと思っていました。どちらも、この世界に否応なく存在する矛盾を呑み込むことができる偉大な人々だと思っていたわけです。ひとつの世界を矛盾なく構築することを目指す大学の人間(いわゆる学者)には、そのような仕事はできません(ただし大学人は、その外側に自分には手も足も出ない広大な世界があることも知っています。それが、教養です)。
ところが昨今は、政財界の人々が社会の矛盾を呑み込もうとしていません。まるでひとつの価値観だけが正しく、それ以外は邪悪な存在であるかのような主張がなされている。これは私にとって大きな驚きです。
バブル崩壊以前に日本経済が絶好調だったのは、そこにアホのエネルギーが詰まっていたからでしょう。アホなガラクタが集まったところに、それを役立てられる流れが起きたから、投資以上の利益が得られたのです。
そのアホを排除して、自分たちが「選択」した価値観だけに「集中」して投資しても、何も起こりません。それは、この世が予測不能なカオスだからです。この世界観が複雑系のコンテキストで語られるようになったのはごく最近ですが、それと同様のことは、ずっと以前から森先生をはじめとする教養人たちが主張してきました。
いま政財界で活躍されている方々は、教養部がある時代に大学を卒業されたことでしょう。ところが「選択と集中」に邁進されるみなさんの言動からは、微塵も教養が感じられません。これは、かつて教養部に籍を置いた私のような大学人の大いなる失敗です。それを謙虚に反省し、今後は二度とこのようなことがないように、微力ながら本書を執筆した次第です。
<関連記事>
★著者関係
★マイナス系
★カオス系