【概要】
著者(監督):遠藤周作
基督者・遠藤のイエス像解釈。小説というよりも伝記。「事実」のイエスよりも「真実」のイエスを描こうと試みており、彼の基督観・人生観がうかがえる。
無力で何の力も持たない彼は、哀しみを共有し弱者に寄り添う愛の伝道師だった。そんな基督の歩んだ道程と、弟子たちの回心に思いを馳せながら読みたい。
『沈黙』もよろしくな!
【詳細】
<メモ>
イエスはその短い生涯の間、外観でも名前でも決して目だつことのない、平凡で、生活の匂いのする多くの人間と少しも変りのない姿をされていたのだ。
貧しさとか、生活の苦労、働く男女の汗の臭いをイエスが身にしみて知っておられたことは、聖書に出てくる彼の譬話をよむとはっきり感じられる。一枚の失った銀貨を家中さがしまわる女の話は、ひょっとすると彼の家庭で起ったことなのかもしれぬ。三斗の粉のなかにパン種を入れる女の話は、ひょっとすると、母マリアのことだったかもしれぬ。
イエスの生涯を正確にたどることはできぬ。事実の通りイエスの行動を記録することもできぬ。しかし聖書を読むたびに私たちが生き生きとしたイエスやそれをとりまく人間のイメージをそこから感じるのはなぜだろう。それは事実のイエスではなくても真実のイエス像だからである。
イエスの生涯をつらぬく最も大きなテーマは、愛の神の存在をどのように証明し、神の愛をどのように知らせるかにかかっていたのである。
彼女はイエスがどんな人かは知らなかったにちがいない。ただその姿から言いようのない「やさしさ」を見ぬいたのだろう。自分の惨めさにも自分にたいする蔑みにもあまりに馴れていた彼女は、どんな人が本当の心のやさしさを持っているか本能的に感じたのだ。
私たちの心を動かすのは彼女の病気がイエスの奇蹟で治されたという結末よりも、おずおずと衣服に触れたその女の指一本から彼女の切ない苦しみのすべてを感じとったイエスである。
聖書をイエス中心という普通の読みかたをせず、弟子たちを主人公にして読むと、そのテーマはただ一つ──弱虫、卑怯者、駄目人間がどのようにして強い信仰の人たりえたかということになるのだ。そしてまた、そのふしぎな弟子たちの変りかたの原因こそ、聖書が私たちに課するテーマであり、謎とも言えるであろう。
「多くの人」「その友」という言葉を使われた時、イエスはティベリヤに住む祭司や律法学者、自己満足の人たちではなく、ガリラヤ湖畔のみじめな家々から這いだすように出てきた貧しい男女のことを思いうかべられた筈である。町から離れた寂しい谷に隔離された孤独な癩者の群れのことも考えられた筈である。彼が出会ったあまたの病人たち。子を失った母親。眼の見えぬ老人。足の動かぬ男。死に瀕している少女。それらの人間たちの苦しみを分ちあうこと。一緒に背負うこと。彼等の永遠の同伴者になること。そのためには彼等の苦痛のすべてを自分に背負わせてほしい。人々の苦しみを背負って過越祭の日に犠牲となり殺される仔羊のようになりたい。「その友のために」いや、「人間のために自分の命を捨てるほど大きな愛はない」それこそが人々に無力にみえようとも、神の最高の存在証明なのだ。
永遠に人間の同伴者となるため、愛の神の存在証明をするために自分がもっとも惨めな形で死なねばならなかった。人間の味わうすべての悲しみと苦しみを味わわねばならなかった。もしそうでなければ、彼は人間の悲しみや苦しみをわかち合うことができぬからである。人間にむかって、ごらん、わたしがそばにいる、わたしもあなたと同じように、いや、あなた以上に苦しんだのだ、と言えぬからである。人間にむかって、あなたの悲しみはわたしにはわかる、なぜならわたしもそれを味わったからと言えぬからである。
だが我々は知っている。このイエスの何もできないこと、無能力であるという点に本当のキリスト教の秘儀が置されていることを。そしてやがて触れねばならぬ「復活」の意味もこの「何もできぬこと」「無力であること」をぬきにしては考えられぬことを。そしてキリスト者になるということはこの地上で「無力であること」に自分を賭けることから始まるのであるということを。
何もできなかった人。この世では無力だった人。痩せて、小さかった。彼はただ他の人間たちが悲しんでいる時、それを決して見棄てなかっただけだ。女たちが泣いている時、そのそばにいた。老人が孤独の時、彼の傍にじっと腰かけていた。奇蹟など行わなかったが、奇蹟よりもっと深い愛がそのくぼんだ眼に溢れていた。そして自分を見棄てた者、自分を裏切った者に恨みの言葉ひとつ口にしなかった。にもかかわらず、彼は「悲しみの人」であり、自分たちの救いだけを祈ってくれた。
イエスの生涯はそれだけだった。それは白い紙の上に書かれたたった一文字のように簡単で明瞭だった。簡単で明瞭すぎたから、誰にもわからず、誰にもできなかったのだ。