複雑にからまりあった出来事にどう対処するかという時、質問することによって初めて、そこに横たわる根本的な問題が明らかになります。その上で進むべき方向がわかります。「これって、どういうことなの?」という質問から、全てが始まります。
1985年、冷戦の終わり、プラザ合意、バブル景気――。
日本人の思考停止癖を諌め、
なぜ、そうなったのか、を問うよう調教される。
自分で考えてみてください、とテストしてきたりもする。
自分で考えてみてください、とテストしてきたりもする。
どんな問題もテレビや新聞報道の単純化した図式から一歩つっこんだ質問をして、総合的、客観的な判断を自分の責任のもとでしていくことが必要なのです。
まず、どういう人間を育てたいのか。そこから問い直してみるべきなのです。(略)私の答えは「異才」です。政治にせよ経済にせよ、突出した発想と能力を持った異色の人材が、日本には決定的に不足しています。これからの情報化社会においては、数人の突出した才能の持ち主がイノベーションを起こし、新しい流れを作ってゆきます。
他人のうけうりではなくて、自分の腑に落ちるまで調べてみるのです。そうすることでいろいろな問題が整理されていきます。問題点が整理されてくれば、解決方法もわかってきます。その解決方法をこんどは他人に説明して理解してもらうというプロセスがあります。
私の場合、長年の習慣で、今まで話し始める前に反射的にピラミッド・ストラクチャーが頭に浮ぶようになっています。
しかし世界でトップクラスの知識人と言われる人々は、いずれも知的好奇心に富み、積極的に質問してくる人たちです。
答えがわかっている学校のテストとは違い、現実の社会では、正しい質問をしない限り答えどころか「何が問題なのか」さえはっきりしないのです。だからこそ質問を繰り返すことによって問題の所在を明らかにし、正しい答えを突き止めてゆく必要があるのです。
常識を疑うとは、まさにあとがきの幕府弁護がそれ。
読んだ3-5倍の時間をかける、などケンイチ式読書術もチョッコッとだけ語られる。