十三歳の清顕は美しすぎた。ほかの侍童と比べても、清顕の美しさは、どんなひいき目もなしに、際立っていた。色白の頬が上気してほのかに紅をさしたように見え、眉は秀で、まだ子共らしく張りつめて懸命にみひらいている目は、長い睫にふちどられて、艶やかなほどの黒い光りを放った。
彼は自分の十八歳の秋の或る一日の、午後の或る時が、二度と繰り返されずに確実に辷り去るのを感じた。
旗のように風のためだけに生きる。自分にとってただ一つ真実だと思われるもの、とめどない、無意味な、死ぬと思えば活き返り、衰えると見れば熾り、方向もなければ帰結もない「感情」のためだけに生きること。……
禁忌としての、絶対の不可能としての、絶対の拒否としての、無双の美しさを湛えていた。聡子は正にこうあらねばならなかった! そしてこのような形を、たえず裏切りつづけて彼をおびやかして来たのは、聡子自身だったのだ。見るがいい。彼女はなろうと思えばこれほど神聖な、美しい禁忌にもなれるというのに、自ら好んで、いつも相手をいたわりながら軽んずる、いつわりの姉の役を演じつづけていたのだ。
清顕が遊び女の快楽の手ほどきを頑なにしりぞけたのは、以前からそんな聡子のうちに、丁度繭を透かして仄青い蛹の生育を見戍るように、彼女の存在のもっとも神聖な核を、透視し、かつ、予感していたからにちがいない。それとこそ清顕の純潔は結びつかなばならず、その時こそ、彼のおぼめく悲しみに閉ざされた世界も破れ、誰も見たことのないような完全無欠な曙が漲る筈だった。
清顕の唇はその絶妙のなめらかさに酔うた。それによって、堅固な世界は、紅茶に涵された一顆の砂糖のように融けてしまった。そこから果てしれぬ甘美と融解がはじまった。
かれらを取り囲むもののすべて、その月の空、その海のきらめき、その砂の上を渡る風、かなたの松林のざわめき、……すべてが滅亡を約束していた。時の薄片のすぐ向う側に、巨大な「否」がひしめいていた。
重要なのは、二人が誰憚らず、心おきなく、自由に逢うことのできる場所と時間だけだった。それはもはやこの世界の外にしかないのではないかと疑われた。そうでなければ、この世界の崩壊の時にしか。
「今、夢を見ていた。又、会うぜ。きっと会う。滝の下で」
『春の雪』だけでも美しすぎますッ!
ユッキーのライフワーク。
三島由紀夫の文学・人生の総決算。
第四巻『天人五衰』を書き上げた日、著者は死ぬのである。
感情に生きた清顕、意志に生きた勲、肉体に生きたジン・ジャン(、パチモンの透)
の夭折転生四兄弟を主軸に、多数の事件・人物を配して進行。
清顕の親友・本多は全巻にわたつて登場。
主人公たちの存在感の希薄化に伴い、やがてストーリィを動かす側に回つてゆく。
見られる者・見る者の物語の始まりと終わり。
見られる者・見る者の物語の始まりと終わり。
本多はしばしば思索にふける。
ずっと若いときには、現実は一つしかなく、未来はさまざまな変容を孕んで見えるが、年をとるにつれて、現実は多様になり、しかも過去は無数の変容に歪んでみえる。
そして過去の変容はひとつひとつ多様な現実と結びついているように思われるので、夢との堺目は一そうおぼろげになってしまう。
それほどうつろいやすい現実の記憶とは、もはや夢と次元の異ならぬものになったからだ。
時代が驟雨のようにざわめき立って、数ならぬ一人一人をも雨滴で打ち、個々の運命の小石を万遍なく濡らしてゆくのを、本多はどこにも押しとどめる力のないことを知っていた。が、どんな運命も終局的に悲惨であるかどうかは定かではなかった。歴史は、つねに、ある人々の願望にこたえつつ、別のある人々の願望にそむきつつ、進行する。いかなる悲惨な未来といえども、万人の願いを裏切るわけではない。
すべての観念、すべての神々が、力をあわせて巨大な輪廻の環の把手をまわしていた。宇宙の渦状星雲のようなその環は、あたかも地球の自転の感覚を知らずに日々地上の生活を送っている人々のように、まだその輪廻の感覚を知らぬままに、喜び、怒り、悲しみ、楽しんでいる人々を載せて、ゆったりと廻っていた。
阿頼耶識は、かくてこの世界、われわれの住む迷界を顕現させている。すべての認識の根が、すべての認識対象を包括し、かつ顕現させているのだ。(中略)
本多はすでに清顕と勲の人生に立会い、手をさしのべることの全く無意味な、運命の形姿をこの目に見たのだった。それは全く、欺されているようなものだった。生きるということは、運命の見地に立てば、まるきり詐欺にかけられているようなものだった。そして人間存在とは?人間存在とは不如意だ、ということを、本多は印度でしたたかに学んだのである。
本多の生涯を費して、三つの世代にわたる転身が、本多の生の運行に添うてきらめいたのち、(それさえありえようもなかった筈の偶然だったが)、今は忽ち光芒を曳いて、本多の知らぬ天空の一角へ飛び去った。あるいは又、その何百番目、何万番目、何億番目かの転身に、本多はどこかで再会するかもしれない。
透は偽物だつた。
しかし、その事実も本多に運命・輪廻への確信を棄てさせなかつた。
そう、彼だけがこの奇跡の目撃者であつたから。
遂に聡子と六〇年ぶりの再会。それは、衝撃の結末であつた。
「その松枝清顕さんという方は、どういうお人やした?」(中略)「しかし、もし清顕君がはじめからいなかったとすれば」「それなら、勲もいなかったことになる。ジン・ジャンもいなかったことになる。……その上、ひょっとしたら、この私ですらも……」(中略)「それも心々ですさかい」
この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまったと本多は思った。
心に築いた大伽藍の一さいは、忽然と姿を消した。
夢と現、過去・現在・未来、意志と運命、若さと老い、
そして美や認識の不確かさなど、読者を哲学的思索に導かずには置かない。
それにしてもさすがはレトリックの魔王ユッキィ。
眩めく美文の奔流に呑まれるな。激流に潜む声を掴みとれ。
彼が求め、築き上げた、美・愛・死の三重点には若さが豊溢してゐる。
その対極にある老醜の世界は見るに堪えないものであつた。
しかしそれらも結局は、「心々」なのかもしれない。
しかしそれらも結局は、「心々」なのかもしれない。
各巻はじめの百頁ほどは稍しんどいが、中盤からはグッと引き込まれる筈だ。
転生といふ不思議な物語にリアリティを与へてゐるのは、登場人物の心理描写・挙動の精緻さなのであらう。