(・ε・)藪からスティックにどうしたい!?サムライスピリットに目覚めたのかい?
まあ、そんなとこ。嗜虐性にあふれた行為には興味があるんだ。行為者が腹に小刀を突き立てる瞬間、どんな感覚や光景が眼前にあったのかなって。
確かに気になるね。まあ、すぐ後ろに立ってる人に介錯されるから痛みや苦しみもほんの一瞬だろうけどね。死の間際にはその一瞬が無限に引き延ばされるのかもしれないけど。
ぼくはいつか介錯する人やってみたいな。Javaさんやらせてよ。
藪からスティックにどうしたい!?だめだめ。代わりにこれでも読んでなさい。はい、『憂国』。(『花ざかりの森・憂国』でも可)
お、寄ってそうなタイトルだね。三島由紀夫か。三島ってあれでしょ。切腹してた人でしょ。
そうだよ。彼はこの作品を自分のエキスのようなものだと言っていた。
『憂国』は、物語自体は単なる二・二六事件外伝であるが、ここに描かれた愛と死の光景、エロスと大義との完全な融合と相乗作用は、私がこの人生に期待する唯一の至福であると云ってよい。
しかし、悲しいことに、このような至福は、ついに書物の紙の上にしか実現されえないのかもしれず、それならそれで、私は小説家として、『憂国』一編を書きえたことを以て、満足すべきかもしれない。
かつて私は、「もし、忙しい人が、三島の小説の中から一編だけ、三島のよいところ悪いところすべてを凝縮したエキスのような小説を読みたいと求めたら、『憂国』の一編を読んでもらえばよい」と書いたことがあるが、この気持には今も変わりはない。
作品解説がすでに文豪感出てるね。壮麗だね。
壮麗な葬礼だね。
え、なんて?
気にすんない。まあこの小説がいちばん三島入門にいいよ。
横たわった中尉は自分の腹にそそがれる妻の涙を感じて、どんな激烈な切腹の苦痛にも堪えようという勇気を固めた。
こうした経緯を経て二人がどれほどの至上の歓びを味わったかは言うまでもあるまい。中尉は雄々しく身を起こし、悲しみと涙にぐったりした妻の体を、力強い腕に抱きしめた。二人は左右の頬を互いちがいに狂おしく触れ合わせた。麗子の体は慄えていた。汗に濡れた胸と胸はしっかりと貼り合わされ、二度と離れることは不可能に思われるほど、若い美しい肉体の隅々までが一つになった。
麗子は叫んだ。高みから奈落へ落ち、奈落から翼を得て、又目くるめく高みまで天翔った。中尉は長駆する連隊旗手のように喘いだ。……そして、一トめぐりが終わると又たちまち情意に溢れて、二人はふたたび相携えて、疲れるけしきもなく、一息に頂きへ登って行った。
目くるめく高みまで天翔っちゃったよ。
天翔っちゃったね。里庄君はこの後の切腹シーンの描写のほうが好きそうだね。
あとはキミの目で確かめろ!
いきなり烈しそうなやつだったね。マイルドなやつは?
『潮騒』『宴のあと』『三島由紀夫レター教室』あたりはマイルドだよ。
『宴のあと』は、ユキオお得意のねっとりレトリックが少なくて読みやすいよ。
こんな独りよがりの老人の媚態は、やすやすと回想を未来に結び、凋んだ記憶の中の洋蘭と活きた洋蘭とを同列に置き、こうして丹念に編んだ陰惨な花環の裡に、かづを閉じこめてしまおうとしているように思われた。
ねっとりしてる気がするんですが…。
まあこんなもんじゃない?『レター教室』はどすか?彼の文学ジャンルの広さの一端を示しているよ。
世の中の人間は、みんな自分勝手の目的に向かって邁進しており、他人に興味を持つのはよほど例外的だ、とわかったときに、はじめてあなたの書く手紙にはいきいきとした力がそなわり、人の心をゆすぶる手紙が書けるようになるのです。
こんな比喩もおもしろいよ。
「体の線が崩れて、はみ出したシュークリームみたいになってしまった」
「人生の積極的意欲が、まるでソフト・アイスクリームのように盛りだくさんに盛られていて」
「感傷というのはGパンみたいなもので、十代の子にしか似合わない」
「どうして牛乳配達が牛乳ビンを置いてくみたいに、お嫁さんを配達してくれないんだろう」
4番目は同意する人多そうだね。
だね。『午後の曳航』や『サド侯爵夫人』あたりで修行したあとは定番の『金閣寺』『仮面の告白』あたりの濃ゆいのどう?
『金閣寺』って…
燃えます。
今私の身のまわりを囲み私の目が目の前に見ている世界の、没落と終結は程近かった。日没の光線があまねく横たわり、それをうけて燦めく金閣を載せた世界は、指のあいだをこぼれる砂のように、刻一刻、確実に落ちつつあった。
キーワードの「滅び」が出てきたよ。レトリック満載の主人公の心理描写に耐えられるかな。
『仮面の告白』はほもほもしいよ。
それは若さへの、生への、優越への嘆声だった。彼のむき出された腋窩に見られる豊饒な毛が、かれらをおどろかしたのである。それほど夥しい・ほとんど不必要かと思われるくらいの・いわば煩多な夏草のしげりのような毛がそこにあるのを、おそらく少年たちははじめて見たのである。
おどろいたのはこっちだよ。こんなに文学的なワキ毛は初めて見たよ…。
私もそうだったよ。
あとは「汚穢屋」なるワードや「聖セバスティアンの殉教」で××しちゃうシーンも印象的だったね。「豊饒」つながりで『豊饒の海』でいちおうフィニッシュしとこうか。
彼は自分の十八歳の秋の或る一日の、午後の或る時が、二度と繰り返されずに確実に辷り去るのを感じた。
これ、ものすごく汎用性高いよ。〇〇歳と季節のとこ変えるだけで文学的な一日を送れるよ。
使ってみるぞい。
これ、輪廻系のお話で、ユッキィがいろんな仏教経典にすんごい影響受けてるのがわかるよ。唯識なんて彼の人工美と真っ向から対立するしね。
かれらを取り囲むもののすべて、その月の空、その海のきらめき、その砂の上を渡る風、かなたの松林のざわめき、……すべてが滅亡を約束していた。時の薄片のすぐ向う側に、巨大な「否」がひしめいていた。
時の薄片…!使ってみます。
重要なのは、二人が誰憚らず、心おきなく、自由に逢うことのできる場所と時間だけだった。それはもはやこの世界の外にしかないのではないかと疑われた。そうでなければ、この世界の崩壊の時にしか。
唯識論などの仏教経典を少し勉強してから読むといいよ。
本多の生涯を費して、三つの世代にわたる転身が、本多の生の運行に添うてきらめいたのち、(それさえありえようもなかった筈の偶然だったが)、今は忽ち光芒を曳いて、本多の知らぬ天空の一角へ飛び去った。あるいは又、その何百番目、何万番目、何億番目かの転身に、本多はどこかで再会するかもしれない。
さいごに、『太陽と鉄』に出てくる筋トレ用のやつを置いておくよ。
今、私の筋肉が、一つの世界を確実に嚙み砕き、嚙み砕いたあとでは、あたかも筋肉が存在しなかったのごとく感じられた。
こんな文学的な筋トレ後の快感は初めて見たよ…。
つづく(かも)