【概要】
著者(監督):石牟礼道子
「ユーキ水銀で溶けてしもうた魂ちゅうもんは、誰が引きとってくるるもんじゃろうか」
ことばを伝える術を失った水俣病患者たちになり代わり、彼らの言葉を紙面に呼び寄せる。挿入される医学的報告書や議事録と本編の文学的筆致が好対照をなす。『忘れられた日本人』あたりを想起させる水俣弁の語り口が印象的。
チッソ社や市政の無理解と無策、仲間であるはずの村民から村八分に遭う患者たち。ふわふわした口調の裏にある深い暗黒と、近代化の暗部から目を背けてはならない。
【詳細】
近現代の工業化の影の部分。
公害防止管理者資格を取得するモチベーション向上につながることうけあい。
<メモ>
九平少年だけが、ひとりで「野球」のけいこをしている午後の村は、彼のけんめいな動作が、この真空を動かしてゆく唯一の村の意志そのものであるかのように、ほかに動いているものはなにもなかった。
私の故郷にいまだに立ち迷っている死霊や生霊の言葉を階級の言語と心得ている私は、私のアニミズムとプレアニミズムを調合して、近代への呪術師とならねばならぬ。
この日はことにわたくしは自分が人間であることの嫌悪感に、耐えがたかった。釜鶴松のかなしげな山羊のような、魚のような瞳と流木じみた姿態と、決して往生できない魂魄は、この日から全部わたくしの中に移り住んだ。
主客が混交した不思議な文体で、勝手に患者たちの思いを代弁する。
たとえていえば現代のイタコ。
うちゃだんだん自分の体が世の中から、離れてゆきよるような気がするとばい。握ることができん。自分の手でものをしっかり握るちゅうことができん。うちゃじいちゃんの手どころか、大事なむすこば抱き寄せることがでけんことなったばい。(中略)
働こうごたるなあ自分の手と足ばつこうて。
自分の体に二本の足がちゃんとついて、その二本の足でちゃんと体を支えて踏んばって立って、自分の体に二本の腕がついとって、その自分の腕で櫓を漕いで、あをさをとりに行こうごたるばい。うちゃ泣こうごたる。もういっぺんーー行こうごたる、海に。
有機水銀の毒気の残るばっかりのおろ良か頭の替えられるなら、頭はスパッとちょんぎってもろて、こんどは生まれ替わって、よか頭で生まれてこうごたる。
うちゃもういっぺん、じいちゃんと船で海にゆこうごたる。
人のもんをくすねたりだましたり、泥棒も人殺しも悪かことはいっちょもせんごと気を付けて、人にゃ迷惑かけんごと、信心深う暮らしてきやしたて、なんでもうじき、お迎えのこらすころになってから、こがんした災難に、遭わんばならんとでござっしゅかい。
ゆりは水子でもなし、ぶどう子でもなし、うちが生んだ人間の子じゃった。生きとる途中でゆくえ不明のごつなった魂は、どけ行った思うな、とうちゃん
ユーキ水銀で溶けてしもうた魂ちゅうもんは、誰が引きとってくるるもんじゃろうか
ゆりからみれば、この世もあの世も闇にちがいなか。ゆりには往って定まる所がなか。うちは死んであの世に往たても、あの子に逢われんがな。とうちゃん、どこに在ると?ゆりが魂は
ここにまことに天地に恥ずべき一枚の古典的契約書がある。新日本窒素水俣工場と水俣病患者互助会とが昭和三十四年十二月末に取りかわした“見舞金”契約書である。要約すれば、水俣病患者の
子供のいのち年間 三万円
大人のいのち年間 十万円
死者のいのち年間 三十万円
葬祭料 二万円
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