Javaさんのお部屋(サム・ジーヴァ帝国図書館)

Javaさんのお部屋です。引っ越しました。詳しくは「はじめに」を読んでね。スマホ版は全体像が見えにくいから、PC版と切り替えながら見てね。

忘れられた日本人

著者:宮本常一
評価:A

【評】
いま老人になっている人々が、その若い時代にどのような環境の中をどのように生きて来たかを描いて見ようと思うようになった。それは単なる回顧としてではなく、現在につながる問題として、老人たちの果してきた役割を考えて見たくなったからである。

私の一ばん知りたいことは今日の文化をきずきあげて来た生産者のエネルギーというものが、どういう人間関係や環境の中から生れ出て来たかということである。
というわけで、民俗学の泰斗がムラービトに対し、村や村人の来し方をインタビゥした。

「ラジオも新聞もなく土曜も日曜もない、芝居も映画も見ることのない生活がここにはまだあるのだ」
「私は旅の途中で時計をこわしてから時計をもたない世界がどういうものであったかを知ったように思った」

戦後間もなくということで、なんともゆったりとした時代であったようだ。
なかでも『土佐源氏』は豊かな余韻を残すのでこれだけでも読むべき。 

結論が煮詰まるまであせらない寄合や、もめごとの処理、
村落共同体を円滑に運営するヒントを教えてくれる。 

気の長い話だが、とにかく無理はしなかった。みんなが納得のいくまではなしあった。だから結論が出ると、それはキチンと守らねばならなかった。話といっても理窟をいうのではない。一つの事柄について自分の知っているかぎりの関係ある事例をあげていくのである。話に花がさくというのはこういう事なのであろう。

何も彼も知りぬいていて何にも知らぬ顔をしていることが、村の中にあるもろもろのひずみをため直すのに重要な意味を持っていた。

そうした生活の救いともなるのが人々の集まりによって人間のエネルギーを爆発させることであり、今一つは私生活の中でなんとか自分の願望を果そうとする世界を見つけることであった。前者は祭とか家々の招宴の折に爆発して前後を忘れた馬鹿さわぎになり、後者は狭い村の中でなお人に見られぬ個人の行為となって来る。

頁を繰る毎に、いろんな情景、いろんな発見があり、
お付け事件や恋しいね事件などの笑い話、
歌合戦、夜這い、観音様ご開帳の艶話がある。
女たちのはなしをきいていてエロ話がいけないのではなく、エロ話をゆがめている何ものかがいけないのだとしみじみ思うのである。
本書に登場する人々や出来事は、たしかに存在していた。

そして真打登場、『土佐源氏』。
女は男の気持ちになっていたわってくれるが、男は女の気持ちになってかわいがるものがめったにないけえのう。とにかく女だけはいたわってあげなされ。かけた情は忘れるもんじゃァない。

ああ、目の見えぬ三十年は長うもあり、みじこうもあった。かまうた女のことを思い出してのう。どの女もみなやさしいええ女じゃった。 

童女
小守りたちがおらにも入れて、おらにもいれていうて、男の子はわし一人じゃで、みんなにいれてやって遊ぶようになった。たいがい雨の日に限って、納屋の中でそういう事をしてはあそうだもんじゃ……。

②嫁さん
秋じゃったのう。
わしはどうしてもその嫁さんとねてみとうなって、そこの家にいくと、嫁さんはせんたくをしておった。わしが声をかけるとニコッと笑うた。わしは「上の大師堂で待ってるで」いうて、にげるようにして、その家の横から上に上る小道をのぼっていった。
(中略)
もう小半ときも待ったろうか。夕方じゃった。夕日が小松を通してさしておったが、下の方から嫁さんがあがって来る。絣の着物を着ていて、前掛けで手をふきふき、ゆっくりと上って来なさるのよ。わしは上からじっと見ておった。なんぼか決心の要ったことじゃろう。わしはほんとにすまん事をする、と思うたが……。

③おかたさま
牡牛はすましたあと牝牛の尻をなめるので「それ見なされ……」というと「牛の方が愛情が深いのか知ら」といいなさった。わしはなァその時はっと気がついた。「この方はあんまりしあわせではないのだなァ」とのう。「おかたさま。おかたさま、人間もかわりありませんで。わしなら、いくらでもおかたさまの……」。おかたさまは何もいわだった。わしの手をしっかりにぎりなさって、目にいっぱい涙をためてのう。
わしは牛の駄屋の隣の納屋の藁の中でおかたさまと寝た。 
(中略)
わしはただこういう人から、一人前に情をかけてもろうたのがうれしかった。はじめて二人が関係したのは春じゃった。それから秋がきて冬にかかるまえじゃったろう。おかたさまは風邪をひきなさってのう。それがもとで肺炎になって、それこそポックリ死んでしもうた。わしは三日三晩、寝こんだまま男泣きに泣いたのう。