Javaさんのお部屋(サム・ジーヴァ帝国図書館)

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補陀落渡海記 井上靖短編名作集

補陀落渡海記 井上靖短篇名作集 (講談社文芸文庫)

【概要】
著者(監督):井上靖

久々の靖。いずれの短編も地味で大きな事件が起こるわけではないが、日常的で普遍的でそして人間味のある、何とも言えぬ読後感がある。著者の私小説というか経験に根ざしているというか。『波紋』と表題作の『補陀落渡海記』がとくに印象的であった。

 

【詳細】
<目次>

  • 波紋:船木君、波紋投げかけていきすぎ。
  • 雷雨:魁太、偏屈すぎ。得意さと淋しさの独り相撲。
  • グウドル氏の手套:小名品といった観がある。
  • 姨捨:オカンの負けん気の強さね。
  • 満月:勤め人の悲哀。
  • 補陀落渡海記:表題作にして、人間のリアルなカッコよくない感情を描く。
  • 小磐梯:ブン投ゲンダラ、ブン投ゲロ!
  • 鬼の話:鬼編の漢字集めやるやる。無数の星に無数の魂。
  • 道:ノスタルジックな追憶が効く。


<メモ>

〇波紋

「今日はこれまでにして戴くわ。お疲れになって?」
そんなことを言って、小さい欠伸をして、手の甲でそれを敲き、船木の気を遠くするような軽快な動作でお茶を運びに縁側の方へ立って行った。船木には夫人の欠伸も美しく見えた。口を小さくまるめた夫人の顔を見て、人間のあらゆる表情の中でこんな可愛らしいものがあろうかと思った。

 

〇グウドル氏の手套

グウドルさんの手套をあれほど大切にしていたことは、一人の心優しい外人への感謝の気持がこめられてあると共に、それは彼女の生涯での、一つの悲しい出来事の記念ではなかったか。それは丁度、松本順への彼女の並々ならぬ没我的尊敬が、彼女のさして幸福だったとは言えそうもない人生行路に、思い出したように時折廻って来た楽しかった小さい幾つかの出来事の記念碑であったように

 

〇満月

「社長、社長の球は受けにくかったですな。 ちょっと、あれだけ速い球はない」
漸く自分の口から出す言葉を思いついて、貝原二郎は言った。貝原はこのことを影林と二人だけの時に言ったことはなかった。 いまが初めてであった。貝原はこの場合必ずしも心にもないことを口走ったわけではなかった。彼は余り度々同じことを繰り返して言って来たので、それはいまや彼の頭の中では一つの真実となっていた

 

補陀落渡海記

金光坊は、そのどの一つの顔でもいいから、それに自分がなれるものならなりたいと思うようになったのである。秋の初めまでは、ともすればそうした顔のどれにでも容易になりそうな自分を感じ、それに嫌厭を感じていたが、いまは反対にそのどの一つにでも、なれるものならなりたかった。なりたいと思ってから、容易になれると思ったことがいかに甘い考えで、簡単なことではそれらのどの一つの顔にもなれるものではないということが判ったのであった。

 

〇道

今思うと、そこにはこれこそ夏であると言えるような夏があったのである。その後再び訪れて来たことのない強烈な夏が、確かにその幼時の子供道にはあったと思う。夏の思い出ばかりでなく、幼少時代に一度やって来て、その後再び訪れることのない周囲の自然との取引きの鮮烈な印象は、その多くが子供たちが自ら支配下に置いた子供道の思い出につながっている。その後再び、そこにあったような夕映えの美しさも、薄暮の淋しさも、夜の怖ろしさも経験することはない。風の音までが子供道においては凛々と鳴っていたのである。