評価:B
【評】
さて、『空海の風景』のことである。
けれん味あふれる空海の生涯を、小説とも随筆ともいえぬ語り口で描き出す。
ひるがえっていえば、それが司馬遼太郎的文体ということなのであろう。
このことは、しばらく措く。
真言密教の創始者にして、一代で密教を確立した、東洋の巨人・空海についてである。
たれもがその名をしっているが、渡唐まえのかれの経歴はおそろしいほどにまっしろである。
近いようで遠くおもえる人物、それが空海にちがいない。
その空白を空想でおぎなったのが本作である。うまくいったかどうか。
自分の皮膚をもって異性の粘膜に接したときに閃々として光彩のかがやく生命の時間を知ったにちがいない。その時間が去ったときに不意に暗転し、底のない井戸に墜落してゆくような暗黒の感覚も、この若者は知ったはずであるかと思われる。
(インド密教は)現世を肯定した。解脱解脱といっても人間も虫も草も、生命があるかぎり生きざるをえないではないか、というひらき直ったところから出発した。かれらは自然の福徳に驚歎讃仰する立場をとり、自然に対して驚歎讃仰する以上、自然の一部である人間の生命に対してもそれを驚歎讃仰した。
おそらく人類がもった虚構のなかで、大日如来ほど思想的に完璧なものは他にないであろう。大日如来は無限なる宇宙のすべてであるとともに、宇宙に存在するすべてものに内在していると説かれるのである。太陽にも内在し、昆虫にも内在し、舞い上がる塵のひとつひとつにも内在し、あらゆるものに内在しつつ、しかも同時に宇宙にあまねくみちみちている超越者であるとされる。
人種・智のるつぼ、長安の極彩色の風景がかれにあたえた影響は、甚大でであった。
かれの語学力、演出力、金策力もまた、巨大あった。
奈良仏教、朝廷、最澄との関係は、帰国後の課題であった。
『三教指帰』『理趣経』、最澄との文通の一節がときおり挿入される。
秘密仏蔵ハ、唯我ガ誓フ所ナリ
空海が唐ばなれをしたのは、本来仏教に付属した呪術部門である密教を一宗にしただけでなく、既成仏教のすべてを、密教と対置する顕教として規定し去ったことである。(中略)
多分に技術的であっな呪術部門であった密教が、空海の手で巨大な宗教体系に仕上げられ、既成仏教からの独立性を主張しただけでなく、『御遺告』にいう「他人」が東寺に雑居しにくることさえ禁じたのである。
高野山に行ってみると、空海の息吹や大日如来の臨在を感じられるだろう。
ちなみに私は冬に行って風邪引きました。