【概要】
著者(監督):向田邦子
思い出というのはねずみ花火のようなもので、いったん火をつけると、不意に足許で小さく火を吹き上げ、思いもかけないところへ飛んでいって爆ぜ、人をびっくりさせる。
記憶というのは、糸口がみつかると次から次へと自然にほどけてくる。
各エッセイで三つくらいのエピソードというか想い出話が語られ、一見それぞれが関係なく話が飛ぶように見えるのだが、各話の終わりでそれらの有機的なつながりを感じられる。放送作家だけあって文章が映像的であり、昭和前期の中流家庭の日常を活写。もはや生活史然としている。少女のませた観察眼を以って眼底に刻まれた記憶は、中年の著者によって紙面に甦る。自虐を入れて自分の現状をsageつつも、知性と微笑が文章に滲んでいる。これがウィットというやつか。
亭主関白で昭和の頑固オヤジだった父がたまに見せる面白みと切なさ、転校前の最終日に若い男性教諭と撮った写真、湯タンポの匂い、母のけずった鉛筆、空襲日に食べた「最後」の昼餐、運転手に間違えて渡したアパートの鍵、お下げ渡しされたころには両端が白っぽくジャリジャリになっている羊羹、アイスクリーム売りの最後の日の夕方、夏の瀬戸内特有の夕なぎに濠の水が煮立つように放つすえた匂い、女学校の校庭で引き抜かされた上級生の口ひげ、垢ですり切れたBのセーラー服の衿、徹子の留守電凸………そういった昭和前中期のエモい情景を追体験できる。
邦子、航空機事故で本書刊行の3年後に死亡するのだが、あとがきに曰く本書は「のんきな遺言状」であるとのこと。解説を書く沢木耕太郎が衝撃を受けたのも無理はない。
【詳細】
<目次>
- 父の詫び状
- 身体髪膚
- 隣りの神様
- 記念写真
- お辞儀
- 子供たちの夜
- 細長い海
- ごはん
- お軽勘平
- あだ桜
- 車中の皆様
- ねずみ花火
- チーコとグランデ
- 海苔巻きの端っこ
- 学生アイス
- 魚の目は泪
- 隣リの匂い
- 兎と亀
- お八つの時間
- 昔カレー
- 鼻筋紳士録
- 薩摩揚
- 卵とわたし
<メモ>
「此の度は格別の御働き」という一行があり、そこだけ朱筆で傍線が引かれてあった。
それが父の詫び状であった。
私達に見せないところで、父はこの姿で戦ってきたのだ。父だけ夜のおかずが一品多いことも、保険契約の成績が思うにまかせない締切の時期に、八つ当たりの感じで飛んできた拳骨をも許そうと思った。私は今でもこの夜の父の姿を思うと、胸の中でうずくものがある。
思い出はあまりムキになって確かめないほうがいい。何十年もかかって、懐しさと期待で大きくふくらませた風船を、自分の手でパチンと割ってしまうのは勿体ないではないか。