【概要】
著者(監督):本郷和人
源頼朝や北条氏とその仲間たちの血で血を洗う闘争、後鳥羽院との対決を解説する。後鳥羽上皇、久々に手腕ある朝廷のプレイヤーだったけど、時代は復古的なやり方を支持しなかったみたい。
ですます調と軽めのノリ(「諦めムード」「ウソ八百ですね」など)で読みやすい。
土地支配や院政のあらまし、武家と中央朝廷の距離感、吾妻鏡の性格などのトピックも興味深い。
私はこの承久の乱こそが、日本史最大の転回点のひとつだと考えています。(中略)
幕府の勝因をあえて一言でいうならば、組織原理の差だったといえるでしょう。それは中央の権威から、在地領主、すなわち現場に根ざした力と組織への歴史的パワーシフトだった──
【詳細】
<メモ>
そもそも鎌倉時代に、「幕府」というきちんとした政治システムが確立していたわけではなかった(中略)
頼朝の作った政治体制の実態を一言で言い表すとすると、私が最もぴったりだと考えるのはこれです。「源頼朝とその仲間たち」。(中略)
鎌倉幕府とは、一言でいえば、この保証人ならぬ保障人・頼朝と主従関係を結んだ仲間たちが、東国に築き上げた安全保障体制なのです。
北条氏の武力と策謀によって将軍が元首から象徴になり、「御家人による御家人のための政治」を志向する鎌倉幕府こと「北条家とその仲間たち」。
西国の守護たちの権力の源泉は、「守護というポストに任じられた」ことにあります。いわば「地位」の論理です。それに対して、東国の守護たちは大なり小なりその「実力」で、地域の武士のリーダーとして在地領主たちを結集させていました。すなわち「人」の論理です。東西の動員力の差は「人」の論理と「地位」の論理の差でもあったのです。それは一万数千と千七百という動員力の違いとなって、如実に現れました。
※政子さんは武士たちに直接語りかけたわけではないみたいです。
他人を信用できない自力救済の世界を生き抜いてきた武士が信じられるものとは何だったのか。それは、命がけで利害を共有し、対面で信頼を伝え合う、一対一の関係に基づいた幕府方リーダーシップだったといえるでしょう。
なお、
承久の乱に敗れた朝廷はそれまでの「上からの」、権威による支配が不可能になり、裁判などのサービスを提供するようになる。そして幕府は自力救済オンリーの「万人の万人に対する闘争」状態を脱し、法による統治と、民を慈しむ「撫民」を志向するようになる。
これは言い換えれば、日本という国のメインプレイヤーが、貴族から武士という在地領主」へ、そしてそれ以外の一般の民へと広がっていく過程でもあります。その大きな画期となったのが、承久の乱だったのです。