評価:B+
【評】
2010年に妻を喪い、悲しみに押しつぶされそうになりながらもすでに涙は出なくなっていた。この言葉に出会う前と後では世界が違って見える。今では、悲しみとは絶望に同伴するものではなく、それでもなお生きようとする勇気と希望の証しであるように感じる。悲しみは、自己と他者の心姿を見通す眼鏡のようにも感じる。
悲しみを通じてしか見えてこないものが、この世には存在する。
悲しみと、愛と勇気と希望を綴った、エイスケのエッセイ25篇を収める。
編集者、批評家であるためか、
賢治、岩崎航、原民喜、須賀敦子、石牟礼道子など文学作品の引用が多く、内容もまた文芸的。
引用は、人生の裏打ちがあるとき、高貴なる沈黙の創造になる。そこに刻まれた言葉は、人がこの世に残し得る、もっとも美しいものにすらなり得る。瀟洒な装幀もいいね!
(著者は割と気さくなオッさんに見えたが@慶應大)
慶應ボーイだけあって井筒俊彦も出現する。
読むことは、書くことに優るとも劣らない創造的な営みである。作品を書くのは書き手の役割だが、完成へと近付けるのは読者の役目である。
<悲しみ篇>
独り悲しむとき人は、時空を超えて広く、深く、他者とつながる。
悲しみは別離に伴う現象ではなく、亡き者の訪れを告げる出来事だと感じることはないだろうか。
<愛篇>
愛するとは、それが何であるかを断定しないまま、しかし、そこに語りえない意味を感じ続ける営みだとはいえないだろうか。
愛する気持ちを胸に宿したとき、私たちが手にしているのは悲しみの種子である。その種には日々、情愛という水が注がれ、ついには美しい花が咲く。内容が内容だけに、
悲しみの花は、けっして枯れない。それを潤すのは私たちの心を流れる涙だからだ。生きるとは、自らの心のなかに一輪の悲しみの花を育てることなのかもしれない。
読むには少し、いやだいぶ早すぎた感がある。
10年くらいたって読んだら、また新たな発見があるだろう。