【概要】
著者(監督):吉村昭
樺太探検・測量でおなじみ間宮林蔵を描いた時代小説。極寒の地の命がけの冒険や地道な測量、アイヌら民族たちとの交流が淡々とした綿密な筆致で描かれる。
後半生では隠密的なこともしていた模様。全般的に暗めだが、孤独というよりは孤高の人生と言った方がよいかも。
【詳細】
<メモ>
- 異国船との争闘、アイヌとの交流、樺太や清国黒竜江の冒険、樺太北部の地形の確定、栄光と立身出世、嫁候補の死、隠密へのジョブチェンジと周囲の白眼視、シーボルト事件、おりきさん出現。波瀾バンジョーとカズーイの人生であった模様。
- 同行者の慰撫に努めたり、アイヌの凍傷対策(耳と陰嚢を念入りに)を郷に入っては郷に従えの精神で取り入れたり、人心掌握と生存に命がけだったことが窺える。幕末の人々のノンバーバルコミュニケーションやハンドサインが興味深い(寝るポーズx20:20日後、クジラの絵を砂浜に描くなど)。
- キチー村落でのおホモっぽい事件が気になる(; ・`д・´)
- レジェンド伊能のご指導ご鞭撻を受け、測地法と三角測量を知る。
- 添付の図がイマイチなのでもっと詳細なものがほしいところ。
箱館奉行所から百八十貫目(約六七五キログラム)の火薬がシャナに運びこまれていたが、娯楽のない地での淋しさをまぎらすため、花火を揚げて楽しむのに使ったりしていたので、火薬の量は少くなっていた。また、大筒の中には、装填できる弾丸のないものもあった。
ほっこりエピソードをいきなり披露される。
村上は、すでに林蔵がエトロフ島シャナでロシア艦来襲騒ぎに遭遇し、敗走者の一人として処罰を待つ身であることを知っていた。
「難儀だったな」
村上は、坐るとすぐ慰めるように言った。
林蔵は、事件後、初めて耳にする温かい言葉に胸を熱くした。
かれは、事件の概要を口にし、自分だけは退却に反対し、それを証拠立てるため戸田又太夫に証文を書かせようとしたが、敗走の混乱の中で果せなかった事情を述べた。
「証文さえ取っておいたら……と、そのことだけが悔まれます」
林蔵は、眼をしばたたいた。
「証文を書かせようとしたのか。お前らしいな」
大正義島之允!
貿易船の往き交う航路沿いの地域は、それによって正確な地図がうみ出されていったが、船の航行することのほとんどない地域の地図は余白のままであった。地理学者は、それを埋めるため探検船に乗って測地をつづけ、ようやく完璧とも言える全世界地図の作成を終えていた。
しかし、その地図の中で、ただ一ヵ所、不明の部分が残されていた。樺太北部の地勢であった。憶測図はいくつか作られていたが、それらはまちまちで一定せず、謎の地域とされていた。
ミスター樺太、始動!
林蔵は、あらためて樺太北部の地勢が日本のみならず世界の地理学者たちの間で最大の関心事になっていることを感じた。西欧の探検家たちは樺太西海岸を北上したが、かれらの乗っていった船は大型船で、吃水も深く、北上するのにも限度があったのだろう。それに比べて自分たちは、わずか三人乗りのチップで北進したので、西欧の探検船よりもさらに奥地へ達することができたのだ、と思った。
逆にね。逆に。
林蔵が眼にしている樺太は、あきらかに島であり、東韃靼との間には海峡が横たわっている。それは、世界の地理学界にとって、定説をくつがえす驚くべき大発見であった。
かれは、風に吹かれながら怒濤のさかまく北の海をながめていた。
本書のハイライトである。
過ぎ去った日々のことが、思われた。農家に生れながら、村上島之允に眼をかけられて従者になり、普請役雇という下級役人にもなった。 測地術を身につけ、エトロフ島ではロシア艦来襲事件にまきこまれ、敗走者のお咎めを避けようとしたことがきっかけで、樺太北部調査の役目を引受けた。二度にわたる調査の旅は、予想してはいたものの苦難にみちたものであった。飢えときびしい寒気に堪えはしたが、いつの間にか肉体が深くむしばまれてしまっているらしい。
※まだ生きます。
この出来事によって、海峡の存在がイギリスをはじめ各国の間に知れ、樺太半島説が誤りであることがあきらかにされた。
シーボルトの「ニッポン」には、日本から持出された林蔵の「東韃靼地方紀行」なども収録され、林蔵の名は、シーボルトによって世界的に知られるようになった。 また、各国語に翻訳されたゴロブニンの「日本幽囚記」にも林蔵についての記述があり、かれのことはヨーロッパ人の間にひろがった。
シーボルトの命名になるMamiya-seto(間宮海峡)という名称が不動のものになったの
は、一八八一年(明治十四年)に刊行されたフランスの地理学者エリゼ・ルクリュの「万国地誌」第六巻「アジア・ロシア」によるものであった。これによって、世界地図の地名に、日本人としてただ一人林蔵の名が刻まれたのである。
明治三十七年四月二十二日、東京地学協会の申請にもとづいて、林蔵に正五位が贈られた。
シーボルトいろいろ持ち出しすぎ(; ・`д・´) でもそれでMAMIYAの名が世界に知れ渡ったのは皮肉だ。
史料は、あたかも庭の飛石のよさに点在している。 私は、その史料と史料の間の欠落部分を創作によって埋めていった。この作業についても谷澤氏の意見をおききしたが、氏は頑な史料蒐集家ではなく、おそらくこうであったのではないか、と、少し笑いながら話して下さったりした。
吉村昭はいい意味でどこの部分が創作なのか判別しづらい(; ・`д・´)