著者:吉本隆明、山下悦子ほか
評価:B
【評】
「あまりにもスキャンダラスな面ばかりが取り沙汰され過ぎて、批評といいますか、知的な言語でもって彼の人間なり作品なりを解読する作業が、まったくと言っていいほどなかった」
ということで94年に出版。
彼の生い立ちから世代論、批評論までいろんなことを語り合う。
尾崎パパも登場。
歌詞も載ってるよ。
「詩」プラス「メロディー」プラス彼の「声の出し方」というもの、それにコンサートの場合は、「観客とのインタラクション」というもの、それらを含めた上で、総合的な表現者として、我々は尾崎を見ていくべきだと思うんです。そういうふうに見たと時は、例えば彼が詩のレベルで到達しているところと、音楽性のレベルで到達しているところを、さらに掛け合わせることになるから、もっと高いレベルに到達していることがわかるはずです。
山下――尾崎の場合、どこまでいっても都市空間しかなく、出口のない都市ではコンクリートを抱いてぬくもりを感じるしかない、そこに苦悩があったんだとは思うんですよ。彼の場合、自分のライブパフォーマンスというものに、ものすごく賭けていたところがあるでしょ。そのときのファンと自分とのやりとり、そこに、孤独を癒す瞬間的なライブパフォーマンスの間だけの共同性みたいなものにすべてを賭けていたわけですよね。
盛岡――だから、ライブで得られる一瞬の全体性の回復のようなものが、実は「虚構」の上で成り立っているものでしかないということを、彼もコンサートをやる度に、全身でひしひしと感じていたんだと思うんです。そうであるにもかかわらず、彼が自分の表現の可能性を突き詰めていくとすれば、それはコンサートの場にしかない、といったパラドックスに、彼は最後に陥っていったんだろうというのが私の見方です。
「批評の解体」の話は興味深いね。
盛岡――(マルチメディア時代においては)批評者は、知性で分節できないようなものをいきなり全身で受け取ってしまう。そこであるトータルなものを感じてしまう。その時に、自分が受け取ったものの全体性を失わないように分析しようとしても、彼が持っている批評の装置というのは、全部分節する装置なんです。だから、彼は、トータルな表現のすばらしさを、切り刻むことによってしか批評できなくなる。これは、現在の「批評」という装置がかかえこんでいる根本的な問題点だと思います。