評価:B+
【概要】
四福音書はもとより、詩人、思想家、哲学者の「コトバ」を引きながら、イエスの生涯やキリスト教を言語哲学的に読み解く。若干言葉回しがかったるいが、まあ面白い。
【詳細】
史実にあまりに重きを置き「科学」であることに満足した現代の学問は、事実の奥で現象している出来事と交わる術を見失ったままなのである。新約聖書には、イエスの生涯を語る不可視なコトバが無数に潜んでいる。というわけでクリスチャンの英輔が、四福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)をメインにイエスの生涯を辿りながら(言語哲学的な)思索を繰り広げる。
リルケ、井筒、柳、大拙、中村、エックハルト、ラーマクリシュナ、ヴァイヴェーカーナンダ、アウグスチヌス、シュヴァイツアー、ガンディー、遠藤、親鸞などのお歴々が登場する。
私はまだマタイとマルコしか読んでいないが、新約聖書のエピソード(イエスにふれた女、イエス神殿で大暴れ、イエスの弟子足ウォッシュ、ユダの裏切り、ペトロ三度否み、イエスの呻吟)を読んで感じた疑問に一つの回答らしきものを与えてくれる。
祈りとは何かを獲得しようとすることではなく、どこまでも受容することである。
それにしても、近藤宏一の聖書の読み方には圧倒させられた。
<ヴァイヴェーカーナンダ先輩のお言葉>
もし皆さんがキリスト教徒になりたいと希望するなら、キリストが生まれたのはエルサレムかベツへレムのどちらかなのかといったことや、山上の説教が語られた正確な日時を知る必要はない。もとめられているのは、ただ山上の説教を感じることである。