評価:B+
【概要】
新聞、国語、地図、小説などに代表される共時的時空間の創出がナショナリズムの源泉となったとの論を展開。豊富な話題が知的興味を引くが、まどろっこしい記述が眠気を誘う。
【詳細】
ナショナリティ、ナショナリズムといった人造物は、個々別々の歴史的諸力が複雑に「交叉」するなかで、18世紀末にいたっておのずと蒸留されて創り出され、しかし、ひとたび創り出されると、「モジュール〔規格化され独自の機能をもつ交換可能な構成要素〕」となって、多かれ少なかれ自覚的に、きわめて多様な社会的土壌に移植できるようになり、こうして、これまたきわめて多様な、政治的、イデオロギー的パターンと合体し、またこれに合体されていったのだと。そしてまた、この文化的人造物が、これほどにも深い愛着(アタッチメント)を人々に引き起こしてきたのはなぜか、これが以下においてわたしの論じたいと思うことである。
東南アジア研究者がナショナリズムの起源と流行について語る。
よく引用される本なのでざっくりは知っておいた方がよいかも。
国民は〔イメージとして心の中に〕想像されたものである。というのは、いかに小さな国民であろうと、これを構成する人々は、その大多数の同胞を知ることも、会うことも、あるいはかれらについて聞くこともなく、それでいてなお、ひとりひとりの心の中には、共同の聖餐(コミュニオン)のイメージが生きているからである。
国民は一つの共同体として想像される。なぜなら、国民のなかにたとえ現実には不平等と搾取があるにせよ、国民は、常に、水平的な深い同志愛として心に思い描かれるからである。そして結局のところ、この同胞愛の故に、過去二世紀にわたり、数千、数百万の人々が、かくも限られた想像力の産物のために、殺し合い、あるいはむしろみずからすすんで死んでいったのである。
そんなわけでImagined communityの成り立たせた要素を挙げていき、それらがいかにI.C.の流行を支えたかを述べていく。
もってまわったような言い方で若干わかりにくい箇所が多いが、畢竟こういうことだ。
新しい共同体の想像を可能にしたのは、生産システムと生産関係(資本主義)、コミュニケーション技術(印刷・出版)、そして人間の言語的多様性という宿命性のあいだの、なかば偶然の、しかし、爆発的な相互作用であった。
出版物を読みまた書くこと、これによって、すでに述べたように、想像の共同体は均質で空虚な時間の中を漂っていくことが可能になったのだった。二つの言語を使いこなすということは、すなわち、ヨーロッパ国家語を経由して、もっとも広い意味での近代西欧文化、とくに19世紀に世界の他の地域で生み出されたナショナリズム、国民、国民国家のモデルを手に入れることができるということであった。出版資本主義を淵源として、ラテン語の没落、言語の相対化、宇宙観の転回が起こった。
近代小説、新聞、国語、地図の発達・拡大により、「均質で空虚な時空間」が瀰漫した。
主としてこれらによって、「国民」や「国家」の人々の心の中に、想像の共同体が構築されていった。
また、挙げればきりがないが、
ハウスブルグ家後期の肩書、クレオールの巡礼、
インドやラテンアメリカ現地人エリートの直面したガラスの天井・疎外感、
多民族・多言語王朝の近代国家への道、公定ナショナリズムの矛盾、
英国やスペインの詩など、
自論を印象付ける例示や挿話が多いのは◯。