著者:小熊英二
評価:B+
【評】
シベリア抑留に限らず、戦争体験の記録は、学徒兵、予備士官、将校など、学歴や地位に恵まれた者によって書かれていることが多い。それらは貴重な記録だが、特定の立場からの記録でもある。生活に余裕がなく、識字能力などに劣る庶民は、自分からは歴史的記録を残さない。
日本だけでなく、世界のどこにおいても、多くの経験や記憶が、聞かれることのないまま消えようとしている。(中略)
記憶とは、聞き手と語り手の相互作用によって作られるものだ。歴史というのも、そうした相互作用の一形態である。声を聞き、それに意味を与えようとする努力そのものを「歴史」とよぶのだ、といってもいい。
本書では、戦前および戦後の生活史を、戦争体験と連続したものとして描いた。それを通じて、「戦争が人間の生活をどう変えたか」「戦後の平和意識がどのように形成されたか」といったテーマをも論じている。
エイジが父・謙二に聞き取りを行い、父が生きた人生を追体験する。
謙二というすぐれた語り手、筆者という聞き手を得、ケンヂの生きた時代が眼前に蘇る。
謙二は地域社会にいても、収容所にいても、その社会関係を冷静に観察し、背景を分析する能力があった。
<入営まで>
「上のほうはいろいろ言ってくるが、下へ行くほど冷めていた」
<入営>
そのとき祖父の伊七は、大声で泣きくずれた。ともに暮らした三人の孫がつぎつぎと病死し、最後に残った検事が軍隊に徴兵される。おそらく生還は期しがたい。孫たちの死にも、商店の廃業にも、自身の脳梗塞にも、いちども愚痴をこぼさず、ただ耐え続けていた伊七が、このとき初めて大声で泣いた。
<軍隊>
- 軍隊は学歴社会であると同時に、競争社会であった
- 盗みがとにかく多かった
- 軍隊は「お役所」なんだ。上から部隊を編成しろ、ここに駐屯していろと命令されたら、書類上はその通りにするが、命令されなかったら何もやらない。
歴史をみていると、庶民の判断は細部では見当違いでありながら、大枠としては正確であるということが、しばしばあるものである。
<収容所>
- 収容所は、捕虜の労働者を各企業体に派遣する、独立採算の派遣企業のような様相を呈していた。
- 捕虜に食料をめぐんでくれるようなロシア人は、女性、とくにおばあさんが多かった。戦争で息子や夫を亡くした人も多かったと思う。
- 湿気が少なくて汗もかかず、そのうえ栄養失調で新陳代謝がないためか、あまりアカもでなかった。
- 収容所の出口に、ソ連側の人々が並んで見送っていた。
- あまりに帰国を夢のように考えていたので、現実になると反応できなかった。自分だけでなく、みんなそんなものだったと思う。現実は、映画や小説とはちがう。
- 床屋や電気工といった、生活に必須の仕事の技術を持っている人は強いと思った。
彼の20代の10年間は、戦争とシベリア、そして結核療養所で終わってしまっていた。
<戦後>
- 当時の会社などは、人間関係がいまより鷹揚だった。一般には、そんなにがつがつ夜遅くまで働かなかった。
- 嫌われたり、悪評が立つようなことをしないことが、注文をとる秘訣だった
<余生>
- 「朝鮮人を日本人として徴集しながら、現在外国人であるがゆえに支給しないのはおかしい」というのが、謙二の考えだった。
- 冷戦終結とアジア諸国の民主化によって、そうした抑圧が解かれ、アジア諸地域から補償要求が出てくることになった。
- そんなことにかかわったら面倒になるとか、まわりの評判に気を遣うとかは、まったく考えなかった。何を気にするというのだ。どうせ「下の下」で生きてきた身だ。自分は人の評判とか、何を言われるかといったことは気にしない。
<若者へのメッセエジ>
自分が20歳のころは、世の中の仕組みや、本当のことを知らないで育った。情報も与えられなかったし、政権を選ぶこともできなかった。批判する自由もなかった。いまは本当のことを知ろうと思ったら、知ることができる。それなのに、自分の見たくないものは見たがらない人、学ぼうともしない人が多すぎる。
<結びのことばにかえて>
さまざまな質問の最後に、人生の苦しい局面で、もっとも大事なことは何だったかを聞いた。シベリアや結核療養所などで、未来がまったく見えないとき、人間にとって何がいちばん大切だと思ったか、という問いである。
「希望だ。それがあれば、人間は生きていける」
そう謙二は答えた。