著者:義江彰夫
評価:B
【評】
「神仏習合を通して日本人の精神世界の豊かな歩みを、社会構造と有機的にリンクさせながら描きなおす試み」。
Stage①
八世紀後半から九世紀前半にかけて、全国いたるところでその地域の大神として人々の信仰を集めていた神々が、次々に神であることの苦しさを訴え、その苦境から脱出するために、神の身を離れ(神身離脱)、仏教に帰依するようになってきたのだ。
神宮寺の出現は、普遍宗教としての仏教と基層信仰としての神祇信仰が、各々の独自の信仰と教理の体系を維持したままで、開かれた系で結ばれたという、日本独自の宗教構造のあり方を示している。
彼ら(地方支配者)は、長きにわたって神を祭る者としての立場を最大限利用し、私富の蓄積を行ってきた。そして、急速にその蓄積は進行した。その結果、神と村人のために仕えるという彼本来の任務は形骸化し、祭りは彼の私腹をこやす手段に転落してきた。その勢いがあまりに急速なため、ついにこのギャップを無意識の奥底に眠らせておくことはできず、その現実を見つめざるをえなくなる。自分の行為が神の道に背く罪であり、神と村人の報復を受けて当然という自覚はこれゆえであった。
このようなとき、雑密のように、何よりも呪術と奇蹟を重んじ、その力で神を仏に向かわせるとともに、神本来の霊力を強化するという独自の構造をもった仏教が決定的な力を発揮したのは、むしろ当然であった。しかも雑密は、その思想の特質からいって、世俗での富の蓄積や繁栄を肯定的に推進する性格を大乗仏教以上に強くもっていた。
空海は、この時代の日本社会が深いところでかかえていた苦悩を根本的に把握し、それを打開するために雑密による神宮寺の建立から大乗真言密教の導入と日本社会内への普及という、日本人の精神史上画期的な偉業を達成したのである。
Stage②
御霊会にはじまり、道真怨霊=天神で跳梁をきわめ、祇園御霊会でふたたび祭りの枠内に終息してゆく怨霊信仰は、密教で統合された神仏習合の宗教運動であったに、以上にみたような幅広い振幅と柔軟性を備えた社会・政治運動でもあったのである。
Stage③
十世紀末に完成する日本型浄土信仰とは、論理化された神祇信仰の核をなすケガレ忌避観念と浄土三部経の実質的な結合と複合体であるということができる。第三段階の神仏習合は、一方ではケガレ忌避観念が極端な肥大化と論理化を遂げて、仏教にみあう価値体系をつくるとともに、他方でその両者が結合して複合体をつくるというところまで到達したのである。
Stage④これ(本地垂迹説…日本各地の神社に祀られた神々を、仏教の神仏が仮の姿をとって現われたものとする説)によって仏教界は王権と世俗世界にむけて、仏の世界が神祇の世界の上位に立つことを最終的・決定的に論理化することに成功したのであった。