評価:B+
【評】
「レイヤー化~」でおなじみ。
「リベラル」「保守」の形骸化を指弾。
反権力は思想ではなく、単なる立ち位置である。反権力ではない、独自の政治哲学を生み出せなかったところに、日本の「リベラル」の不幸があったといえるだろう。
日本の保守派の多くは、家族観から国家制度、社会システム、文化、生活まで古いものから新しいものまでがごたまぜになってしまっていて、区別をつけられていない。
リベラリズムは、本当は存在しない「普遍的なもの」「理想的な個人」を目指した。でも近代ヨーロッパが衰退して、普遍の幻想は崩壊している。「普遍的なもの」がないのに自由な選択だけを求められることは、不安しか招かない。だから二十一世紀にリベラリズムは成り立たない。
そして満を持して放たれる著者のオキニ言葉、「(中庸の)優しいリアリズム」 。
今後の数十年間は、国民国家とグローバル企業のせめぎ合いがさまざまな局地戦とともに続いていくだろう。次第に国民国家は衰退し、グローバル企業を中心とした新しい秩序が経済的のみならず、政治的にも社会的にも生まれてくるだろう。われわれがやるべきことは、そこにいたるまでの移行期において、どう社会を破滅させず、軟着陸に向けて準備を進めていくかということだ。
両極端に目を奪われることなく、その間の中間領域のグレーの部分を引き受けて、グレーをマネジメントすること。その際、人々の感情や不安、喜びを決して忘れないこと。これこそが優しいリアリズムである。
テクノロジーの発達、グローバリズムの拡大により訪れる(と、著者が考える)フラットな世界。
リベラリズムが終焉を迎えた後のネットワーク共同体では、高位に理想はない。そのかわりに縦横の平面が無限に広がり、その中を人々は流動する。かつての農村や企業社会のような古い形式の共同体はもはや存在しないから、そういう共同体に自分を縛り付けておくことはできない。高みを目指して成長し、立派なお金持ちになることを目指すのではなく、水平に移動し続ける社会である。