【概要】
著者(監督):木村敏
精神病理学者が、分裂病・鬱病・癲癇患者の治療から把捉した彼らの時間観を通じ、「もの」と「こと」、「時間」と「自己」などに関し哲学的な思索にとりかかる。
アリストテレスの時間観、ベルグソンの「純粋持続」やハイデッガーの「現存在」などに触れつつ、主観と客観、主語と述語、過去と未来、ポスト・フェストゥムとアンテ・フェストゥム、生と死など二項的に分析を行い、人間の時間観・自己観に関し考察の土台を提供する。
【詳細】
「言語以前の事態を神秘の手に委ねてしまう前に、ここではいましばらく言語的な思索の努力を続けてみたいと思う」
- 自己もことであり存在もことであり、そして時間もことである。
- ことがものとの差異において見えてくるためには、われわれ自身の生きた意識がそこに立ち会っていなくてはならない。
- ことがこと自身においてではなく、ものとの存在論的差異を構成しながら現れ出るときにのみ、そこから時間というものが成立してくる。
- いまがあいだであることによって自身から未来と過去を生み出すというのは、純粋持続と空間との緊張関係ということである。我々は時計の文字盤の上にこの緊張関係を目撃して、そこで時間というものを感じとっているのである。
- いまは、そのつど新たに自己を震撼し、既成の自己を否定するという側面と、他者との共有や他者からの是認を通じて既成の自己を肯定するという側面との両義性をもっている。
- 精神病という事態は、多くの身体疾患とは違って、われわれのだれもが持っているそれ自体異常でもなんでもない存在の意味方向が、種々の事情によって全体の均衡を破って極端に偏った事態にすぎない。
⇒「自分自身を内部から否定しようとする未知性に対する保護膜が弱すぎて有効な遮蔽が得られないタイプの、もっとも極端な場合」
⇒「時間が全体として、ポスト・フェストゥム的に「とりかえしのつかない未済」の相のもとに意識されるため、いっさいの現在が未済のまま過去へと向かって押し流され、しかもその過去が巨大な未済の集積として、恐るべき仮定法的可能性の集団として、現在完了的に、現在のこととして経験されるのである」
〇癲癇病…祝祭的
⇒「日常性を保証する理性的認識の座としての意識の解体」