著者(監督):M・ルター 訳:石原 謙
【概要】
最新テクノロジーの活版印刷を使って旧約・新約聖書のまことの心を伝えようとしたパンフ。行よりも信、他力本願、往相・還相っぽい思想が浄土真宗っぽくてシンパシーを感じる。
【詳細】
旧約は神の誡めを説くが、新約は神の呼びかけを説いている。
その呼びかけを逃さずキャッチするには、何よりもまず信仰だ。
言とキリストをよく自己のうちに形成し、この信仰を不断に鍛錬し且つ強からしめることが、当然すべてのキリスト者のつとむべきただ一つの行いであり修行でなければならない。
今はまず、信仰のみがあらゆる行いなしに義たらしめ自由を与え救いにいたらしめるということを、はっきりと認識し真面目に確信することが大切である。
他力本願、大事。
己れ自身の力をあきらめてどこかに援助を求めるほかはないとのことを学び知るのである。
信仰のありがたさも説いちゃう。
キリストのもっておられたすべての善きものと祝福とはたましいに所属することになり、同様にたましいに属していたすべての不徳と罪過とはキリストに託せられる。かくて今やあり難い交換と取り合いとが始まるわけである。
旧来の旧来の宗教共同体・宗教観にドロップキックする。
つまり信仰が義の首であり、否、その全存在なのである。故にもし行いをもって神の誡めをみたすものとして教える者があったら、それは甚だ危険な恐るべき教である。なぜなら充実はあらゆる行いにさきだって信仰によりなされ、充たされた後に行いが随伴しなればならないので(略)。
まず自身が心のよりどころを得たあとは、周りの人に神が与えたもうたものの恩返しをしよう! と説く。
「他に対しては愛をあらわし、たがいに他に仕え、またおのおの己れ自からをも己れのものをも念とすることなく、他の人とその要するものとを顧みるようにしなさい」(ピリピ人への手紙)
「キリストがわたしのためになりたもうたように、わたしもまたわたしの隣人のために一人のキリストとなろう。そして隣人にとって必要な有益なまた祝福と思われることをのみ努めよう」(ガラテヤ人への手紙)
みたいな言葉の通りに。
そして最後、いい感じにConclusionしてくれる。
以上の全体から、次の結論が生ずる。曰く、キリスト教的な人間は自分自身においてではなくキリストと彼の隣人とにおいて、すなわちキリストにおいては信仰を通して、隣人においては愛を通して生活する。彼は信仰によって、高く己れを超えて神へと昇り、神から愛によって再び己れの下に降り、しかも常に神と神的な愛とのうちにとどまる。ここに新教的思想が実を結んだ。
行よりも信、他力本願、往相・還相っぽい思想に浄土真宗っぽさを感じられて良い。