Javaさんのお部屋・改

Javaさんのお部屋です。引っ越しました。詳しくは「はじめに」を読んでね。スマホ版は全体像が見えにくいから、PC版と切り替えながら見てね。

サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福

著者:ユヴァル・ノア・ハラリ 訳:柴田裕之
評価:A

【概要】
「虚構」を駆動力に驀進してきた人類史7万年の旅路を辿る。古今東西の統計データや歴史的事件・事象、さらに近年の科学的知見をまとめあげ物語を紡ぎ出す営為にただただ感服する。多角的に事象を視、相対化する姿勢は見習いたい。

【詳細】
本書ではこれら三つの革命(認知革命[70,000yrs ago]、農業革命[12,000yrs ago]、科学革命[500yrs ago])が、人類をはじめ、この地上の生きとし生けるものにどのような影響を与えてきたのかという物語を綴っていく。
というわけで、人類史7万年の知的冒険に出発する。
壮大な知のタペストリーなのだが、文明論とみせかけて人生論・幸福論でもある。
まずは人類の虚構構築力に驚嘆せよ。
歴史の大半は、どうやって厖大な数の人を納得させ、神あるいは国民、あるいは有限責任会社にまつわる特定の物語を彼らに信じてもらうかという問題を軸に展開してきた。
著者近影から分かる通り、シニカルな寸言や比喩が光る。
「文化の進化に追い越し車線ができ、遺伝進化の交通渋滞を迂回する道が開けた」
ホモ・サピエンスは、生態系の連続殺人犯」
「私たちが小麦を栽培化したのではなく、小麦が私たちを家畜化したのだ」
「農業革命は、史上最大の詐欺だったのだ」「帝国というロードローラー」など。

と思いきや、ハリポタや車のキーやランボーが登場してお茶目なところを見せたりする。

より楽な生活を求める人類の探求は、途方もない変化の力を解き放ち、その力が、誰も想像したり望んだりしていなかった形で世界を変えた。農業革命を企てた人もいなければ、穀類の栽培に人類が依存することを求めた人もいなかった。数人の腹を満たし、少しばかりの安心を得ることを主眼とする些細な一連の決定が累積効果を発揮し、古代の狩猟採集民は焼けつくような日差しの下で桶に水を入れて運んで日々を過ごす羽目になったのだ。

こうして没収された食料の余剰が、政治や戦争、芸術、哲学の原動力となった。余剰食糧のおかげで宮殿や砦、記念碑や神殿が建った。近代後期まで、人類の9割以上は農耕民で、毎朝起きると額に汗して畑を耕していた。彼らの生み出した余剰分を、王や政府の役人、兵士、聖職者、芸術家、思索家といった少数のエリート層が食べて生きており、歴史書を埋めるのは彼らだった。歴史とは、ごくわずかの人の営みであり、残りの人々はすべて、畑を耕し、水桶を運んでいた。

私たちが特定の秩序を信じるのは、それが客観的に正しいからではなく、それを信じれば効果的に協力して、より良い社会を作り出せるからだ。「想像上の秩序」は邪悪な陰謀や無用の幻想ではない。むしろ、多数の人間が効果的に協力するための、唯一の方法なのだ。

古今東西の人物や事件を自由自在に引用し、
ホモサピの卓越した適応性、そして虚構の構築力に今更ながら驚嘆した後、 
貨幣、宗教、科学、資本主義、さらにはSFチックな話まで展開。

社会環境の変化に追い付けないDNA、DNAと現代社会の齟齬、
バイオテクのロジーやサイボーグ工学、AIなどの人類知のフロンティア、
そして、より高次な人類の誕生にまで言及する。

貨幣は人類の寛容性の極みでもある。貨幣は言語や国家の法律、文化の規律、宗教的信仰、社会習慣よりも心が広い。貨幣は人間が生み出した信頼制度のうち、ほぼどんな文化の間の溝をも埋め、宗教や性別、人種、年齢、性的指向に基づいて差別することのない唯一のものだ。貨幣のおかげで、見ず知らずで信頼し合っていない人どうしでも、効率的に協力できる。

歴史を研究するのは、未来を知るためではなく、視野を広げ、現在の私たちの状況は自然なものでも必然的なものでもなく、したがって私たちの前には、想像しているよりもずっと多くの可能性があることを理解するためなのだ。

進んで無知を認める意思があるため、近代科学は従来の知識の伝統のどれよりもダイナミックで、柔軟で、探究的になった。そのおかげで、世界の仕組みを理解したり新しいテクノロジーを発明したりする私たちの能力が大幅に増大した。

将来への信頼に基づく、新たな制度が登場したのだ。この制度では、人々は想像上の財、つまり現在はまだ存在していない財を特別な種類のお金に換えることに同意し、それを「信用クレジット」と呼ぶようになった。この信用に基づく経済活動によって、私たちは将来のお金で現在を築くことができるようになった。信用という考え方は、私たちの将来の資力が現在の資力とは比べ物にならないほど豊かになるという想定の上に成り立っている。
とここで、いきなり(でもないが)反旗を翻し、幸福について問いかける。

確信を持って語れる近代社会唯一の特徴は、その絶え間ない変化だ。人々はこうした変化に慣れてしまい、私たちのほとんどは、社会秩序とは柔軟で、意のままに設計したり、改良したりできるものであると考えている。近代以前の支配者の主な公約は、伝統的秩序の堅持であり、彼らは、かつての失われた黄金時代への回帰を訴えることさえあった。だが、過去2世紀に政治の舞台で広く謳われてきたのは、旧来の世界を打破し、それに代わるより良い世界を構築するという約束だ。

だが、私たちは以前より幸せになっただろうか?
過去5世紀の間に人類が蓄積してきた豊かさに、私たちは新たな満足を見つけたのだろうか?
無尽蔵のエネルギー資源の発見は、私たちの目の前に、尽きることのない至福への扉を開いたのだろうか?
さらに時をさかのぼって、認知革命以降の7万年ほどの激動の時代に、世界はより暮らしやすい場所になったのだろうか? 

仏教的・東洋的な安寧の理想への憧憬を見せつつも、
それでも、少なくとも現在支配的な資本主義的世界に生きなければならない。
己自身を知ることの重要性を匂わしつつ、疑問文ラッシュで幾多の問いを投げつけられて終了。

人々が自分の人生に認める意義は、いかなるものもたんなる妄想にすぎない。中世の人々が人生に見出した死後の世界における意義も妄想であり、現代人が人生に見出す人間至上主義的意義や、国民主義的意義、資本主義的意義もまた妄想だ。人類の知識量を増大させる自分の人生には意義があると言う科学者も、祖国を守るために戦う自分の人生には意義があると断言する兵士も、新たに会社を設立することに人生の意義を見出す起業家も、聖書を読んだり、十字軍に参加したり、新たな大聖堂を建造したりすることに人生の意義を見つけていた中世の人々に劣らず、妄想に取りつ憑かれているのだ。(中略)
これはなんとも気の滅入る結論ではないか。幸福は本当に、自己欺瞞あってのものなのだろうか?


最大の問題は、自分の真の姿を見抜けるかどうかだ。古代の狩猟採集民や中世の農民よりも、現代人のほうが真の自分を少しでもよく理解していることを示す証拠など存在するだろうか?

自分が何を望んでいるかもわからない、不満で無責任な神々ほど危険なものがあるだろうか?

いやはやロングなジャーニーであったことよ。
多角的な視点をもつこと、事象を相対化すること、通史的に事象を再構築し物語をつくること、そんな姿勢を学びたいと思ったね。