Javaさんのお部屋・改

Javaさんのお部屋です。引っ越しました。詳しくは「はじめに」を読んでね。スマホ版は全体像が見えにくいから、PC版と切り替えながら見てね。

シッダルタ

著者:H.ヘッセ 訳:手塚富雄
評価:A

【概要】
幾多の師のもとを経て真理に至る過程を感動的な筆致で描き出す。
さすがはノーベル文学賞作家である。よくぞここまで東洋の心を理解したものだ。

【詳細】
シッダルタだけどゴータマじゃない。
或る沙門が幾多の師のもとを経て真理に至る過程を、感動的な筆致で描き出す。
東洋の心の理解者・ヘッセが描く馥郁としたインド的光景、
華厳経を彷彿とさせるイマージュの奔流に圧倒させられる。読め。

真理に逢着したかと思ったら違う、の繰り返しで生き方試行錯誤の結果やっとこさ真理に至る。
こなれた訳で読ませる物語となっている。

<旅立ち編>
真我アートマンは彼のうちに存在しないのであろうか。彼自身の心の中に本源の泉は湧き出していないのであろうか。それをこそ、その本源の泉をこそ、吾人は探し当てねばならぬのだ、自己の所有とせねばならぬのだ。

その御教えには、世尊御自身が体験し給いしこと、百千万人のうち世尊のみが体験し給える秘奥は含まれていないのでございます。これが御教えを聴きながら、わたくしの考え、悟ったことでございます。これがわたくしがわたくしの遍歴をつづける理由でございます。

この瞬間、周囲の世界が彼から消え去り、独り彼が天上の離れ星のように立ったこの瞬間、この悪寒と意気消沈の瞬間の中から、シッダルタは浮かび上がった、以前より、より多く、「彼」となり、より確固と「自ら」に凝集して。彼は感じた、これこそ覚醒の最後の戦慄であり、誕生の最後の痙攣であったのだと。そしてただちに再び歩を踏み出した、足早に、性急に、歩み出した、そしてもはや再び家を、父を、後ろを、顧みなかった。


<愛欲編>
では、このこともよく覚えていらっしゃい――愛は哀願して得ることも、買うことも、贈り物として受けることも、道で拾うこともできますのよ。けれど愛は奪い取ることはできません。

そしていかにこの最初の接吻の奥に、よく順序づけられ、的確な効果をもつ一聯の接吻がひそんでいて、その一つ一つがおのおの違った味わいをもってい、なお彼を待ちうけているかを。深い息を発して彼はたたずんだ、そしてその瞬間、彼の眼前にうち開かれた豊かな知識と学びの宝庫を見て子供のように驚き呆れるばかりであった。

彼女は彼の声を愛した。彼女は彼の眼差しを愛した。

彼女の紅い賢い口は多くのことを彼に教えた。彼女の優しいしなやかな手も多くのことを彼に教えた。愛の道においてはまだ子供であって、さながら底なき淵に跳び込むように、盲目的に飽くことなく快楽の中に飛び込もうとする彼に、彼女は根柢から次のことを教えた――人は快楽を与うることなしに快楽を受け取ることはできない、そしてどんな手振りも、どんな愛撫も、どんな接触も、どんな眼差しも、身体のどんな小さい局部も、皆それぞれの秘密をもっていて、その秘密の触発が、その道に通ずる者にはこの上もない幸福を与えるのである。

さらに彼女は教えた――愛する者同士は愛の饗宴の後にかりにも不満の心をもって別れてはならない、必ず互いに驚嘆し合い、相手を征服したばかりではなく、相手から征服されたのでなければならない、二人のいずれの心にも飽満のいとわしさや満たされない寂寥の感じが起こってはならない、相手を犠牲にしたとか、相手から犠牲にされたとかいう不快の感情が生まれてはならない、と。

彼はこの美しい賢明な芸術家のもとにおいて驚異に充ちた時間を送り、彼女の弟子となり、彼女の愛人となり、彼女の友となった。このカマラのもとにこそ彼の現在の生活の価値と意義とがあった、カーマスワミーの「商業」にはなかった。

川の流れのように編>
けれどもこの道程はやはり非常によかった、やはり自分の胸の中の鳥は死にはしなかった。しかし何という道であったろう、自分はあのように多くの愚かさ、あのように多くの迷い、あのように多くの嘔気と幻滅と悲哀とを経て、再び子供となり、もとの出発点に戻ったにすぎなかったのだ。しかしそれでよかったのだ、自分の心はそれに対して「よし」と言っている、自分の眼はそれに対して笑みかけている。

彼は「聴くこと」を理解している点において類まれな人だった。彼が一語も発しないのに、語り手はよく感じた、ヴァズデーヴァが静かに、胸を開いて、待ち受けながら、自分の言葉を受け入れてくれること、そして彼が一語も聞きもらさず、一語も焦って促すことなく、賛辞も非難も挟まずに、ただじっとこちらの言葉に傾聴していることを。このような聴き手に、おのれを告白し、その胸の中へ自己の生涯、自己の探究、自己の苦悩を沈め葬ることは何という幸福だろう、とシッダルダは考えた。

ヴァズデーヴァが教えうるより以上のことを河が彼に教えた。河から彼は絶え間なく学んだ。中にも彼は河から聴くことを学んだ、心静かに、魂を開き期待に充ちて、焦ることなく、望むことなく、判断も意見も持つことなしに、耳を傾けることを。

河は河の至る所で存在する、源においても河口においても、滝においても、渡し場においても、瀬においても、海においても、山においても、至る所で同時に存在する。そして河にはただ現在があるばかりで、過去の影もなく、未来の影もない。

喜びの声と号泣の声、子供の声と大人の声、それはみな結び合い融け合っていた。愛慕の嘆きと智者の笑い、激怒の叫びと臨終の呻き、すべては一つであった。すべては互いに織り合わされ結び合わされていた、限りなく絡み合いもつれ合って。そしていっさいを合したもの、いっさいの声、いっさいの目標、いっさいの憧れ、いっさいの悩み、いっさいの快楽、いっさいの善と悪、それらいっさいを合したものが世界であった。

<振り返り編>
わたしは多くの師に就いてきた。一人の美しい遊女は長い間わたしの師だった、それから富裕な商人も、数人の賭博者も。或るときはまた遍歴中の仏弟子がわたしの師であった、その仏弟子は、わたしが森に眠っているのを見て、遍歴の足をとめて、わたしのそばにいてくれた。その仏弟子からもわたしは学んだ、その仏弟子にもわたしはお蔭をこうむっている、非常に、非常にこうむっている。しかも最も多く私が学んだのは、ここを流れている河だ、またわたしの先達、渡し守のヴァズデーヴァだ。彼は極めて単純な人だった、ヴァズデーヴァは、思索する人ではなかった、しかし彼は仏陀ゴータマに劣らず必然の理を知っていた。一人の完成者であった、聖者であった、彼は。

わたしにとって大事なことはただ一つ、それは世界を愛しうるということだ。世界を軽蔑せず、世界と自分とを憎まず、世界と自分、そしてあらゆる存在を愛と嘆賞と畏敬の念をもって眺めうるということだ。