Javaさんのお部屋(サム・ジーヴァ帝国図書館)

Javaさんのお部屋です。引っ越しました。詳しくは「はじめに」を読んでね。スマホ版は全体像が見えにくいから、PC版と切り替えながら見てね。

ブッダ最後の旅

訳:中村元
評価:B+

【概要】
繰り返しが多すぎるので差分だけにして。
歴史的人物としての釈尊と超越者としての彼が混淆している。
その臨終でアーナンダやチュンダに見せたやさしさは真実だったと信じたい。

【詳細】
そのこと(法)が、多くの人々の利益のために、多くの人々の幸福のために、世間の人々を憐れむために、神々と人々との利益・幸福になるためである。

従弟にして常侍の弟子・アーナンダを連れ、諸国を布教するゴータマ師が寂静のなかで涅槃に至った最後の旅。 
インド仏典らしく繰り返しが多く若干退屈だが、後半から加速していく。

アーナンダよ。これは修行完成者(わたし)がヴェーサーリーを見る最後の眺めとなるであろう。さあ、アーナンダよ。バンダ村へ行こう

死の遠からぬことを悟った時期の問答で、
アーナンダに「まだ逝かないで」と言わせたいがために「仏の顔も三度まで」を実践しているのはやや欲しがりだ。
それだけに、ブッダが最期に見せたやさしさが効くね。
商業都市の殷賑から離れ、十方世界の神霊大集合のなか、彼は弟子にこう語りかける。
やめよ、アーナンダよ。悲しむな。嘆くな。アーナンダよ。わたしは、あらかじめこのように説いたではないか、――すべての愛するもの・好むものからも別れ、離れ、異なるに至るということを。およそ生じ、存在し、つくられ、破壊さるべきものであるのに、それが破滅しないように、ということが、どうしてありえようか。アーナンダよ。そのようなことわりは存在しない。
アーナンダよ。長い間、お前は、慈愛ある、ためをはかる、安楽な、純一なる、無量の、身とことばとこころとの行為によって、向上し来れる人(ゴータマ)に仕えてくれた。アーナンダよ、お前は善いことをしてくれた。努めはげんで修行せよ。速やかに汚れのないものとなるだろう。 
上記の言葉に加え、毒きのこを捧げた鍛冶工の子・チュンダは功徳を積んだのだ、と言っていることからも、
「ゴータマ・ブッダは思いやりの深い人であった」ことがわかる。
アーナンダよ。あるいは後にお前たちはこのように思うかもしれない。『教えを説かれた師はましまさぬ。もはや我らの師はおられないのだ』と。しかしそのように見なしてはならない。お前たちのために私が説いた教えとわたしの制した戒律とが、私の死後にお前たちの師となるのである。

「瑣細な、小さな戒律箇条は、これを廃止してもよい」
「お前たちは師を尊崇するが故にたずねないということがあるかもしれない。修行僧たちよ。仲間が仲間に(たずねるように)たずねなさい」
という言葉が後世の教団分裂や頽廃を暗示しているが、
ひたむきに真理を追求し、幸せになれというゴータマ大先生のメッセージはいつまでも、どこまでも色褪せない筈だ。
歴史的人物としてのゴータマはその臨終においてさえも、仏教というものを説かなかった。かれの説いたのは、いかなる思想家・宗教家でも歩むべき真実の道である。

パーリ語原文から邦訳しており、訳注が分厚い。
西洋人の仏典解釈に喝を入れていったり、原典のメッセージを解説したり感慨を漏らしたりと、むしろ訳注が本編みたいなところがある。

ゴータマ・ブッダの死のかもし出した雰囲気は紛うべくもなく、我々に迫って来る。そこには一点の疑問の余地もない。ゴータマ・ブッダは弟子や信者たちに見まもられながら、やすらかに息をひきとった。それはいささかも曇りや汚れを残さない、しめやかな愛情と親和感にみちた臨終であった。