著者:吉川幸次郎 三好達治
評価:A
【評】
ヨッシーとタッツーが唐詩を精選した。
杜甫、李白、王維が大半を占める。
英訳や思い出、感興を交えた解説は、収録された珠玉の漢詩たちをさらに輝かしいものにするであろう。
詩を読むことは、何を措き、まず純粋に、読者内心の歓びであっていい。自由な個人的喜びであることを要する。それが始めであり終りであって差つかえはない。
叙景に熱心な中国詩の、その自然景観は、長江大沢、千山万峰、平沙あり荒無あり、城関あり駅亭あり、という風で変化に富むとともに、べら棒に広大である。この自然景観の茫漠とした大きさ、涯しない黄土のひろがり、我々のと異ったそんな空間に育まれた詩的情感には、たしかに我々にとって一つの珍らかな、共感と奇異の感とを同時に喚び醒ますエキゾティックな魅力がある。
平仄押韻の厳しい規律の上にある音韻美は、一切かたわきに押しのけておいて、原詩に就て多くのものを失った後で、いわば落穂拾いのような姿で私どもはそれを拾い読むのであるが、それにも拘らず私どものそこから感得した獲り収れはなお決して乏しくはなかった。
<杜甫>
大芸術を成り立たせるものは、偉大な誠実であるということを、杜甫の詩は身をもって示すものである。
杜甫の詩の情熱の源泉となったもの、それは社会と政治に対する、はげしい関心である。人類の不幸をいたみ、その将来をおもんぱかる、憂世の心である。
絶句
江碧鳥逾白
山靑花欲然
今春看又過
何日是歸年
天地の推移は悠久であるのに反し、人間の生命は有限である。有限の時間の中を推移する生命は、その推移を重々しくせねばならぬ。推移を重々しくする道、それは推移の時刻を、充実した重量のある時間とすることである。
春望
國破山河在 城春草木深
感時花濺涙 恨別鳥驚心
烽火連三月 家書抵萬金
白頭掻更短 渾欲不勝簪
他にも『江亭』『登高』『夜』『新婚別』など。
<李白>
人と人への誠実をこころざす杜甫は、どうしても世の中のいろんなことが気にかかる。だから憂いの詩に富む。また憂いという口ごもりがちな感情が、大きな情熱の力によっておし出されるために、言葉は常に鍛錬され、謹厳である。ところが情熱そのものに忠実な李白は、情熱をいざなう機会に敏感である。だから快楽の詩に富み、言葉は滝のごとく奔騰する。奔騰する言葉は、情熱の強さの故に、表現せんとする情熱のはばのままのはばをもち、たゆみを見せることがない。まじりけのない、線のふとさという点では、李白も杜甫も、おなじである。
山中與幽人對酌
兩人對酌山花開
一杯一杯又一杯
我醉欲眠君且去
明朝有意抱琴來
戴老酒店
戴老黄泉下
還應釀大春
夜臺無李白
沽酒與何人
贈汪倫
李白乗舟將欲行
忽聞岸上踏歌聲
桃花潭水深千尺
不及汪倫送我情
玉階怨
玉階生白露
夜久侵羅襪
却下水精簾
朎朧望秋月
靜夜思
床前看月光
疑是地上霜
擧頭望山月
低頭思故郷
他にも『長干行』をはじめ、
『山中答俗人』『夏日山中』『擬古』『宣州謝眺樓~』
『勞勞亭』『獨坐敬亭山』『宮中行樂詞』『採蓮曲』
『回郷偶書』『秋朝覧鏡』『秋浦歌』など。
<王維>
杜甫が人間の心情の美しさを歌う詩人であり、李白が人間の行為の美しさを歌う詩人であるとすれば、王維は主として自然の美しさを歌う詩人である。
送別
下馬飮君酒
問君何所之
君言不得意
歸臥南山陲
但去莫復問
白雲無盡時
九月九日憶山東兄弟
獨在異郷爲異客
每逢佳節倍思親
遥知兄弟登高處
徧插茱萸少一人
あと、『送元二使安西』。
他の詩人については、
孟浩然『春暁』、王昌齢『閨怨』、
崔国輔『長樂少年行』、杜牧『江南春』、
岑参『登古鄴城』、陳子昂『登幽州臺』
などがいいかな。
劉廷芝『代悲白頭翁』
古人無復洛城東
今人還對落花風
年年歳歳花相似
歳歳年年人不同
寄言全盛紅顔子
応憐半死白頭翁