Javaさんのお部屋(サム・ジーヴァ帝国図書館)

Javaさんのお部屋です。引っ越しました。詳しくは「はじめに」を読んでね。スマホ版は全体像が見えにくいから、PC版と切り替えながら見てね。

自分のなかに歴史をよむ

著者:阿部謹也
評価:B+

【評】
アベキンが自分史、自己形成の歩みを振り返る。

ヨーロッパの何がどのように明らかになったときに、私たちはヨーロッパを理解したことになるのかという問題です。

私は、ひとつの社会における人間と人間の関係のあり方の原点と、その変化が明らかになったときに、その社会が解ったことになるのではないかと考えはじめていたのです。

モノを媒介にする関係と、目に見えない絆で結ばれた関係の二つが、人間と人間の関係の基礎にあると一応考えてよいでしょう。ですから、この二つの関係の原点がとらえられたとき、私たちはその社会の人間と人間の関係の基本的な型を理解したことになり、その社会が解る前提を手に入れたことになるのだと思うのです。

学問の意味は生きるということを自覚的に行う、つまり自覚的に生きようとすることにほかならない。
そのための手続き、
① ものごころついたときから現在までの自己形成の歩みを、たんねんに掘り起こしてゆくこと
②同時に、①を《大いなる時間》のなかに位置づけていくこと


学問との邂逅から、ハーメルンの笛吹き男との出会い、被差別民の研究に話は移っていく。
アジールだのマクロコスモス・ミクロコスモスだの、網野善彦を思い出した。

この伝説(ハーメルンの笛吹き男)を調べている間中、笛吹き男とはいったい何者か、という疑問が私の頭からはなれませんでした。そこで古代ローマ以来の芸人の系譜を洗いながら、中世において笛吹き男を含めた芸人とはどのような人々であったのかを知ろうとしました。そこで私は、ヨーロッパ中世社会における差別の問題にはじめて触れることになったのです。


のちに賤民として差別されることになる人びとは、中世中ごろまではみな、大宇宙を相手にして仕事をする異能力者として、畏怖される存在だったのです。

ところがキリスト教の教義では、天地創造からアダムとイヴの楽園追放、イエスの降臨と死と復活を経て、人類史は最後の審判へと直線的に流れてゆく救済の歴史ととらえられ、この世におけるすべての出来事は、病気も不幸も不運も、あるいは災害や戦争、不作なども、みな神の摂理の結果として説明されることになったのです。

彼岸における救いを確かなものにするために現世で善行を積み、その証しとして教会に財産を寄進し、個々の人間関係においても、彼岸における罰を条件として誓約が結ばれる社会が、徐々に生まれていたのです。

ほんとうに「理解」するって、難しいことなのね。
私にとって歴史は自分の内面に対応する何かなのであって、自分の内奥と呼応しない歴史を私は理解することはできないからなのです。